アメーバー経営ということ
アメーバー経営というのは、京セラの稲盛和夫氏の下で確立した企業内独立採算制方式に基づく経営のことです。
特徴は、先ず組織を切り分けて最小単位を作り、その組織単位ごとに時間当たり採算をみていくというところにあります。
目的は、全員参加型で従業員各個人に経営者意識を持ってもらう、という点にあるようです。
しかしアメーバーという表現の意外性、その単位ごとに時間で採算性を見るという斬新性に引かれて、これを採用しても必ず失敗します。
これを考える上で「技術論」と「精神論」という二つの視点があります。
まずその技術的側面から見て参ります。
「蟹はその甲羅に似せて穴を掘る」といいます。アメーバー経営を導入するためには、まず第1の課題として、財務諸表の公開が社員にできる状況にあるか、ということが問われねばなりません。日本の殆んどは同族経営と思います。
私が敬愛するTKC創業者「飯塚毅」は、税理士の廉潔性を説き、税理士は事務所の金銭には一切触れてはいけない、と述べています。これは法人の経営も同じであろうと思います。最初に経営陣の、稲盛和夫氏の言「私心なかりしか」が、問われるわけです。
財務諸表の従業員への公開が可能ということであれば、アメーバー経営の第一段階のテストは合格したことになります。
第2、アメーバー経営の実践には、発注伝票、納品書、請求書には、その社自前のフォーマットのものを作って、取引先に渡し、集計が機能的に出来るようにしなければなりません。その請求書にはアメーバー単体の部門名称(あるいはコード番号)が入っていなければならないということです。
請求書の締切日は統一して仕入先に周知し、その月の締め日の10日内で集計できるようにすることが大事です。これが翌々月の末日にならないと、集計資料が出来上がらない、というようなことでは、折角出来上がった資料も、冷めた味噌汁みたいなもので、アメーバー単体の反省にも励みにもならず、およそアメーバー経営の実践では、役には立ちません。
その為に、材料の購買や数字の集計には独立した部門を創って、その部門で発注や集計を一元的に管理する必要が出て参ります。営業所や工場が各地に散らばっているようなケースでも同じで、間接部門の増員が余儀なくされることも出て参ります。
第3、アメーバー経営を導入するとして、その計算や集計が、紙と鉛筆を使って計算ができる状態にあるか、ということが問われます。
よく見かける例として、手で出来ていないことをシステム設計して、コンピュターを導入すれば、どんな経営資料も難なくできる、と誤解することです。高い費用を出して、結局システムが使いこなせない、ということになります。
手計算の手続き(マニュアル)がしっかり確立しないで、ソフトの設計はできないのです。
確認したところでは、その昔(昭和50年ごろまで)は、京セラにおいてもアメーバー経営資料(時間当たり採算表)は手で作成をしていたそうです。
第4、製造経費と、販売管理費の明確な区分が要求されます。各勘定科目の中味も厳格にして、会社独自の経理規定が作成されなくてはなりません。
この分類がいい加減であれば、経営に役立つ分析資料はできません。
同時に、例えば販売費に含まれる交際費であっても、それが各アメーバーの直接費なのか、あるいは共通費として認識して、配賦しなければいけないものなのか、の基準が精密でなければなりません。また共通費として配賦するのであれば、その配賦基準が人なのか、場所別面積なのか、なども問われることになります。この配賦基準についても、経理規定で謳うことがベターです。
第5、アメーバー単体の集計が元帳の記載にまで繋がっていることで、仕事の重複が避けられます。イージーな方法としては、元帳の作成と、アメーバー経営資料の作成を分けて考える、という方法も考えられますが、それではアメーバー経営資料が雑なものになる可能性があります。
第6、アメーバー経営の経営資料が外部へ流出した場合のことも考えておく必要があります。この経営資料は各従業員にも公開されるのですから、それによって外部に流出してしまうことが問題です。
その中に、企業の比較優位性が隠されているなら、それが外部に流出することで、優位性を失うことにもなります。
第7、これは第2に書いたこととも関連することですが通常、管理部門と製造現場は、課題が違います。製造部門は納期対応や、生産の時間的歪みを恐れますから、受注産業であっても材料や製品在庫は多くを抱えようとします。
しかし管理部門は、それでは困ることになりますし、アメーバー経営を標榜する以上、その必然として在庫が発生することは、結局アメーバー単体の時間当たり採算が悪くなります。それはアメーバー単体としては困るのです。
謂わば自家撞着を抱え、呻吟することになります。
次に精神的な面を考察します。戦後、松下電器が財閥解体の憂き目を見たとき、身を挺してその救済に当ったのが松下電器の労組でした。松下幸之助は労組と一体化していたのです。
稲盛和夫氏も、従業員の上に絶大な威厳を以って君臨されたのであろうと思います。この両者は従業員に握手を求めたのではなく、それぞれの従業員がこの両者に握手を求めたと云うべきです。お二人は従業員からは尊敬と憧憬の念に満ち溢れて崇められたということではないでしょうか。
稲盛和夫氏から学ぶべきは、まずこの経営の術であり、アメーバー経営の効率性のみを求めたのでは、必ず失敗します。
アメーバー経営の根底にあるのは、マニュアルではなく、思想なのです。
現下の経営風土を眺めたとき、大手企業と雖もマニュアルだけになりつつあります。
松下幸之助や稲盛和夫氏の精神的側面を、こと細かに触れることは無駄であるように思います。二人をいくら分析しても意味はないかも知れません。
時代にはその時代の精神というものがあり、それはその環境の中で育まれるもので、たとえ日本に今、松下幸之助が誕生したとしても、今の風景に合うかどうかは別ものです。
不易の中に流行があるのではなく、流行の中に不易が存在するということです。今ほどトップからパート従業員まで含めて全員参加型の経営が求められているときは無いように思います。アメーバー経営はその切り札になるか知れません。そうであるならなおのこと、経営者の哲学、経営姿勢が問われるのです。