非合理の経営

宇宿允人(うすきまさと)をご存知か。
私もよく知らない。知っているのは梅谷忠洋先生が敬愛追慕されているオーケストラの指揮者であるということだけである。
宇宿允人は、今年の春ごろ亡くなった。実は、梅谷先生からその宇宿允人が指揮していたオーケストラの練習風景が入ったDVDを頂戴したのだ。そのDVDを拝見し、常日頃梅谷師匠からお聞きしている宇宿允人の印象を重ねて、この一文を記す。
宇宿允人は小柄で体躯も細く額は広い。鼻筋、幅は広くないがいかにも音楽家然として、スマート。唇は横長で適当に厚くて端正、人への愛情は深そう。眼は切れ長で、深くものを考えるタイプ、と思って頂きたい。
 私は音楽については皆目わからないし、オーケストラについても門外漢。
多少の不安を感じながら、DVDで宇宿允人練習風景を見ての感想を述べる。一遍のDVDで断定的に述べるのは軽率の誹りを免れないだろう。そこは覚悟の上。
練習風景であるが、宇宿允人は、その曲目とオーケストラの関係性について明確な理想を持っていたようだ。
曲目を作曲者の目線で、より作者以上にその曲目を深く洞察し、更に演奏に一点の妥協を許すことなく、各才能を一線に徹底して揃えて、パワーを発揮させる。
才能というのは職人芸みたいなもので、揃えることは難儀に違いがないと思うが、一切の妥協を排除して宇宿允人は、生涯それを追求し続けたのだろう。
宇宿允人は、オーケストラ演奏には狂おしいまでの創造的理解を示した。作曲者には、信仰にも似た尊敬と憧憬があった。
だからこそオーケストラは一丸となって、宇宿允人に従った。
そこに宇宿允人という人物の純情、音楽に対する至情の念を、見てとることができる。
練習風景のなかで、宇宿允人は本人の指示が徹底しないことに悲観してか、思わず机につっぷしてしまうのである。これは練習生にとっては堪えるだろう。それは宇宿允人の凄みでもある。
常人はここまで、己を曝け出せない。おそらく神に仕えるような純なる魂で音楽に人生を懸けたのだろう。
良寛さんであったと思うが「裏をみせ表もみせて、散る紅葉」という句を残している。自らを曝け出し、それこそ全身全霊で、オーケストラを指揮・指導したのだ。
美の世界に生きようとすれば、一切の妥協は排除され、一途な純情が試されるのだろう。
これを経営という視点でみたとき、どうなるか。
合理の経営と、非合理の経営。ここでいう合理の経営とは、計算をし尽した経営のこと。1+1=2であるし、2+2=4であり、経営者は通常、この合理の経営を求めて数値計画書(目標)を作り、人員や設備を配置する。
計画というのは、そもそも仮定であるから、外部経済事象の要因によって、あるいは計画そのものに内在する矛盾によって、必ずしも達成できるものではない。最近の経営者が追及するのは、この合理の部分のみであることが多いのではないか。
非合理の経営とはなにか、合理の上に立って、かつ1+1=4とするような計画性を持った経営のことだ。それは合理を超越したものであって、不合理を意味しない。この場合、1+1=2が合理とすれば、あとの2は経営者の思いということになる。
この思いを従業員や関係者に投げ掛けて、氣合の入った集団を作ることだろう。
わが身に置き換えて、自らの仕事にそこまでの尊敬、憧憬、使命感を持てるや否や、と問われると辛い。
非合理の経営とは正氣を持った経営のことであり、正氣とは常人からすれば狂氣でもある。ここのところは分かる人には分かるし、分からない人には皆目分からないだろう。
宇宿允人は、企業経営において100%真似すべきか、というとそうではない。宇宿允人はオーケストラという領域でのみ、完結した人なのだろう。
このような評価は、宇宿允人を損なうことではない。
企業経営においては、宇宿允人の心情を汲みつつもやはり妥協が必要となる。企業経営は一つの舞台において、限られた時間のなかで、かつ完結を目的としたものではないということでもある。
混沌に身を置いて目的を見失わないことである。現身というのは、有象無象の中で生きることであり、希望は持ちつつも、決してその希望は達成されるものでもないだろう。
宇宿允人のように愚直なまでの根気・熱情・想像力が要求される。経営者というのは、合理と非合理を、まるで羽衣を纏うがごとく負担としないで、一身において止揚しなければならない。
果たして情熱を持って生涯を通じて続けられるのか、という話だ。