人の世

『友が皆我より偉く見ゆる日よ、花を買いきて妻と親しむ』
『あかあかと日はつれなくも秋の風』
上は石川啄木の短歌で下は松尾芭蕉の俳句。
我々は世捨て人ではない。自己を社会との関係性の中で追求している。
 そうすると、今の社会は経済的にどれだけ成功したか、が一つのメルクマールとなる。お金ないしはお金に換金できるものを、どれだけで持つかで経営が時流に乗っているかどうかの証しにするということだ。
つまりお金というのは、成功の客観的指標となる。これくらい指標として明確なものはないだろう。
 したがってお金を持つということが、人からの尊敬と憧憬の近道ですから、そのために、がむしゃらに働き、自らの厚顔無恥には恬として目をつむることになる。
 戦前、高利貸しは嫌われたらしい。しかし今は、消費者金融がTVコマーシャルを打つ時代。
 戦前というのは明治以前の気風がまだ残っていた。アメリカとの戦争に負けた結果、物欲民主主義が大手を振って日本を徘徊しだしたのだ。
世のため、人のためと思って仕事をしているつもりでも、事業と成れば、利害得失は当然考える。世のため、人のための純真な事業欲というようなものではない。
 たとえそれが世直しの純真な事業欲であっても、企業の永続を願えば、将来に備えてお金を残さねばならないし、できることなら、税金も少ない方がいい。
自らを振り返っても、どこまでが世のためで、どこまでが金儲けなのかの区別さえ付かない様となる。
 誰もが皆、時代の影響を受ける。これは致し方がないことだ。
だが他方においては、時代の趨勢にどっぷり浸かってしまってそれでいいのだろうか、という問い掛けがある。これがない人は幸せで、経済的成功をよすがとして、掛け値なしにこの世を謳歌することができるだろう。
 人の孤独というのは山の上にはなく、街の中にある。まさに丁々発止で交わす刃をふと止めたところにある。上記の石川啄木の歌などは、その孤独を謳ったもの。己の生命を謳歌し、意気揚々と快活に談論を交わす友の内にあって、ふと覚めてしまった自分が居る。
 身の置き所がなくなり花を買って帰り、その花を題材に妻と語る。妻は啄木の心の内を知るよしもない。それが啄木をしてその孤独から解放する。これはそのような心情を謳ったものだろう。
 上の芭蕉の句はもっと切実。晴れ渡った空に耀く秋の太陽は明るくとも、暑くはない。冷たい飄々した風が身体を包むように流れていく。そこにいかにも頼りなげな己がいる。宇宙における一瞬の命がある。それは熱き血潮の流れる、懐かしく愛しい命でもある。
命は宇宙から飛び出て、一瞬の光芒を放って再び宇宙の彼方へと消える。

 いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば
 自性すなわち無性にて すでに戯論を離れたり

先に出した啄木の歌も、芭蕉の句も、白隠和尚の座禅和讃も、その心底においては選ぶところがないだろう。
本質は無常。澱みに浮かぶ泡沫はかつ消え、かつ結びて久しく留まりたるためしなし。方丈記の書き出しそのままの人生が展開しているのだ。
群衆を避け、肩書きを外し、スーツを脱ぎ、虚飾をはがし、戯論を去って、己が命を凝視すれば自ずと気づくものがあるように思います。究極の理解は言葉を超えたところにある。
本質に気付けば、全てが氷解するのではないか。
 快活に振舞う友人には、既にその感性がない。啄木が友人に感じた違和感の本質はこのようなものではなかったのか。
 街に出たときは、逆さまのまんまでよいのだ。それが戦後日本の国是。
亡くなりましたが、江藤淳はこれを、外に出て人に会ったとき「暑いですね」。と謂われれば、「そうですね、暑いですね」と交わし、家に帰ればステテコ姿でビールを飲むような感覚と、どこかに書いていた。
 しかし問題は、このステテコ姿で開放に浸り、1人ビールを味わう、という感覚がなくなってしまったことなのだろう。