箴言

「つまずいたっていいじゃないか、にんげんだもの」というのは、相田みつをの箴言です。躓いたら躓きっぱなしでいて構わない、と云っているように私には聞こえます。ちょっとホッとするかも知れませんが、人の心に火をつけ、行動を促すのもではありません。
相田みつをがなぜ世間に受けるのかは私にはわかりませんが、彼の残した言葉というのはおよそこの類のものです。
しかし彼を好きな人は大勢います。その人は、相田みつをに限りない優しさを感じているのでしょう。
言葉の解釈と、それが心にどう映じるかは百人百様で、これを咎めることはできません。ただその解釈にはその人の器量が反映するように思います。
 「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」。これは親鸞聖人の言葉です。
ここでの善人は、お人好しということではありません。また悪人といっても殺人を犯したから悪人というようなことでもありません。熊谷二郎直実は平家の若武者を屠りましたが、それを懺悔し、法然上人のもとで得度しました。
 ここでいう善人は悟りを得た人という意味だろうと思います。浄土信仰というのは浄土往生をひたすら願うことですから、往生の道を極めたからといって自惚れたのでは、浄土は遠くなります。自らの内に悪(嫉みや妬み二枚舌などの煩悩)を自覚し、尚且つ浄土往生を願えば、それが叶う、というほどの意味です。
 親鸞聖人は、そうした煩悩を心底悩みぬき、且つ浄土往生を願え、といっているわけです。「俺は煩悩で悩みぬいている」というところに落ち着いて、それで気持ちが良くなるようでは善人に分類されます。 
それこそ煩悩の淵において、身悶えして苦しむ中にこそ、浄土直行の魂が宿るということができるのです。知り合いの斯波最上和尚は「出来上がるな!」とおっしゃいました。一脈通じるところがあると思います。
悟りを得えられる人というのは「九牛の一毛」であり、凡人が自らを善人と定義すれば、偽善に陥ることになります。偽善家というのは傍目にも臭く見えます。人から尊敬と憧憬を得ることなど有り得ません。
 日常において、気がついているかどうかに拘わらず、人は偽善行為を結構やってます。
大きな震災がきました。これからボランティアがマスコミの脚光を浴びるでしょうが、このボランティアなどは殆どが、偽善と考えて差支えありません。
死ぬような苦しみのもとで、ボランティア活動ができれば本物です。
 人生観の基盤をどこに打ち立てるか、ということはよほど考えなければなりません。
経営者はことさらにそうです。
ところで「大国を治むるは小鮮を烹るがごとし」と云えばどうでしょう。
こういう言葉に接すると、私などはどうしても字義の解釈にこだわってしまいます。
「小鮮」の「少」は多い少ないのことか、あるいは大きい小さいのことか、あるいは「小鮮」とはサバかイワシか、はたまた牛の切り身では駄目なのかなどと考えてしまう。
その結果、言葉に引きずり回されて迷うだけに終わり、結局、肝心なところが素通りしてしまいます。

この大国というのを、例えば文字通り人口の多い、少なくとも人的規模が5千万人以上の国と考えたとします。しかしその捉え方だと、我々人間の日常生活とは殆ど何の関係もないものになってしまいます。従って日常レベルにおいては得るものがない。
ところが大国を自己と認識した場合には、別の意味を持って、深く考えさせられることになります。
大国を自己と捉えるなら、小鮮は己の肉体であり心そのものとなる。
そうすると自己として、肉体とか心をどのように制御すべきかというとろころに意味が出て参ります。それはまた肉体や心がどのようなものかを考えることでもあろうかと思います。その前に、まず自己というものを徹底的に問わねばなりません。
すなわち肉体と心を制御している自己とは何か、ということに思いが届かなければ、肉体や心も自己の中に漫然として存在するものでしかありません。否、自己そのものが無限定の曖昧なものに堕してしまいます。
 通常の場合、人は自己というものを深くは考えていませんから、それが相手次第で、時には心であったり、時には肉体であったりするわけで、自己というものを心身以外のものという、捉え方はしないのが普通です。
 あるいは、大国を自らが主宰する会社と捉えれば、「小鮮」は何に当るのか。
近代国家というのは、主体を持っていて植民地ではありませんから、為政者というのは国の中に存在するもので、国の外にはいません。
会社も国家と同様に同志的集まりを持った器です。この場合「小鮮」には経営者も従業員も含まれてくることになります。
つまり治める側と治められる側が、同じ鍋の中にいて、それぞれの役割を果たしているということです。では火加減を調節するのは誰か、ということになりますが、それは経営者であったり、経営者の命を受けた社員であったりすることになります。
しかしどうもこの辺りになると、思考が固着することになります。火加減は経営者がするものであって、社員がするものではない、という風に考えてしまう。
しかしそういうことではありません。有能な社員というのは社長の個性をよく知っていて、経営者を上手に使う術を心得ているものです。また経営者も従業員から上手に使われることを喜ぶ度量が必要ということになります。

「大国を治むるは小鮮を烹るがごとし」という、言葉をしっかりと考えて参りますと、国においても、会社においても、家庭においても、また自分自身の上で展開しても、およそどこでも通じる道であるということができるかと思います。
箴言をどのように読んで、どのように人生に展開するか、難しいものですね。