母性の記憶

9月13日(日)島根県のある地方都市、浄土宗のお寺で法要が執り行われた。法要の主は高岡潔子さんということにしておく。強く印象に残る人だ。
その7回忌。
法要の前日午後の2時頃、お寺についた私たちは、お墓にお参りをした。9月の中旬で暑くはあったが、既に秋の気配があった。お寺の正門からは人1人がやっと通れるほどの道を歩き、狭い石段を登ると、そこが小高い丘となっていて海が見え、突き抜けるような開放感はその石段からは想像できない。
その小高い丘は5メートル四方。そこが彼女の墓地というわけだ。墓地の囲いや石畳、それに塔婆は大理石で、まだ新しく、高価を思わせるものであった。
塔婆は遠くから眺めると餅5枚ほどを重ねたような形をしていた。中には阿弥陀如来像が彫られ、裏に回って階段を降りると人1人が立って入れるほどの納骨堂があった。
同行させて頂いた伊藤さんご夫妻は、前日の風雨で、木の葉の散った墓地の周りを箒と水で丁寧に掃き清められた。
住職の話では、この塔婆を、もう少し膨らみのあるものにしたかったそうだが、中国に注文をしたため、意思が充分に伝わらなかったそうだ。

 高岡さんは長い間、天王寺区内で会社を経営されていた。私との付き合いは、私の勤務時代を通じてかれこれ30年はあっただろう。
社長時代、彼女の報酬は月間73万円。辞めるまでこれを変えることはなかった。従業員は常時7名ほど。給料の高い人では、高岡さんの年収を超えるときもあった。
資本金1,000万円、年商せいぜい4,5億円の小企業にしては従業員の待遇は破格であった。それだけの業績を上げた彼女の経営手腕にも瞠目するものがあったが、そのように従業員を厚遇する会社というのも少ないものである。
私は高岡さんからは例えば過度の節税など嫌な要求をされたことは一度もない。
またクリスマスの時期、近くのホテルの一室を借り切って、パーティが模様された。来賓の祝辞などはない、お祝いも受けない、誰が挨拶をするわけでもない。得意先は一切呼ばない。仕入先や外注先とそれに従業員が主体であった。
高岡さんの経営する会社は、それこそ鰻の寝床を縦に三つ重ねたような借家であった。戦前の津田塾を卒業されていて流暢に英語、中国語を操った。当初は貿易を専業でやられていたようであったが、後にはその貿易業を縮小、ご自身がお辞めになる数年前にはこれを廃して、後継者のために国内での雑貨販売に切り替えられた。
もっとも貿易業に見切りを付けられたのは、後継者のためだけではなくその行き先が楽観的ではなくなったこともあったようだ。私が勤めていた会計事務所とのお付き合いを頂いたのは、まだその貿易業を続けられていて、国内での雑貨販売を開始された直後のことである。
高岡さんは結婚をされてはいたが子供がなく、その会社が子供であると、よくいっていたものだ。
昼時など、私はたまに近くの喫茶店に呼び出しを受けた。コーヒーより紅茶がお好きで、「倉矢さん、あなた忙しいでしょうから、早く帰って、私はもう少し座っていくわよ」と、煙草をくゆらせながら、関東弁で私の帰りを急がせるのが常で、「倉矢さん、お金はね50歳から貯めればいいのよ。それまでは自分のために遣うのよ」というのも、彼女の口癖の一つであった。
「自分に投資しなさい。男が若いうちからお金を貯めて喜ぶようではみっともないわよ」。私には彼女の言葉がそのような響いたものだ。

会社をお辞めになったのは、65歳のときのことである。本当はもう少し手前で辞めたかったようであるが、それを65歳にされたのは、やはり後継者が育ってなかったからだろう。
というより、彼女の生涯設計として、65歳がタイムリミットだったのかも知れない。
65歳をタイムリミットとして、とりあえず経営をそのときの社員に任せたといったところではなかったか。
退職金は2、300万円ほど。私はもう少し多く取られてもよいのではないですか、と勧めたのであるが、変えることはなかった。

高岡さんは、明るい人であった。しかも高貴であった。その高貴さがよく身についていて、厭味がなかった。それに言行にぶれがなかった。自身のことより人の身を心配する人でもあった。私とのお付き合いは、税務会計を通じた限られたものであったが、私は高岡さんの前に出るとはにかみながらの、心地よい緊張を覚えたものである。
あの姿勢の正しさ、高貴さはどこからきたのだろうか。しかし軟弱というのではなくパワーがあった。
子供のころは大連に住んでいたということを直接聞いたことがある。その大連から付き人に連れられ、飛行機で宝塚歌劇を観にきたこともあるそうだ。お父さんは満鉄の関係者であったようだ。その育ちの良さが彼女の真骨頂だったのかも知れない。
 ピアノも嗜まれたようで、美醜に対する感性が鋭く、相手の本心から出た確信的失言はいつまでも覚えていて許さないようなところがあった。高岡さんからは「あの人が、このようなことを言ったのよ」といった話を聞く機会は何度かあった。
しかしそのように批判はしても、批判した相手を優しく見守っているような優しさも、持ち合わせていた。美醜に対する鋭い感性というのは、正邪をも厳しく峻別する。またその眼は、まず自らに向かうものである。従ってご自身をもよく律しておられた。 
それに正義感も人一倍強かったのではないか。顧問税理士を私が勤めていたところに変えたのも、私の先代の税理士とは昔からの顔馴染みということもあったようだが、前の顧問税理士が彼女に「高岡さんも、適当に脱税をしているでしょう」と言われたことが直接の原因だったようだ。
高岡さんは母性の強い人でもあった。私は彼女の聡明さや卓越した経営手腕に惹かれていたのだが、それは属性であって本質はその母性の強さにあったと思う。その母性で会社を経営されたのである。
会社をお辞めになる直前、ニコニコしながら「この会社の株式を、どのように分けようかねえ」と呟かれていたのが、印象的である。実は彼女、会社の後継者と従業員の小さな子供達に株式のプレゼントを考えていたのだ。
会社は後継者らの幸福の基礎となることを念願して、周到な準備に年月を費やし、引き渡した。しかし遺言書を認められるころには、会社は内紛で末期的様相を呈していた。
高岡さんは会社を家族、従業員を子供と考えていたのは間違いない。従業員は3日で経営者を見抜くが、経営者は3年たっても従業員のことが分からない。経営者に母性があればなおさらだ。今になって思うと、その母性が後継者問題については仇になったように思う。
社員に対する愚直なまでの母性は、彼女の聡明なでかつ豊かな感性に勝ったというところか。

高岡さんは辞めた後、会社の経営に一切口をはさむことはなかった。いや株主としては、何回かは会社にはおいでになったようだ。これは後から聞いたことではあるが、あるとき会社にきて、後継の社長に決算書を見せてくれるように言ったところ、くだんの後継社長は、決算書を高岡さんの前に、ぽっと置いて、何も言わずに出ていったらしい。
普通なら「わざわざお越し頂いてありがとうございます。本来ならお届けすべきところを失念してすみません」といって、決算内容の説明ぐらいはする。
この継者の日常の言動からすれば悪気があったとも思えなないのだが、創業株主に対する態度としては屈辱的な光景だ。
高岡さんが会社に顔を見せることはその後なかった。ここら辺りで、彼女の会社に対する思いは立ち消えたのだろう。普通であれば会社の解散を考えても不思議はなかったと思うが、それはされなかった。
この後継者が辞めたあと、高岡さんとは前から知り合いであった別の人がこの会社の経営を継いだ。

高岡さんが亡くなられたのは6年前。お歳は73歳ぐらいであっただろう。
その2,3年前、私に弁護士を紹介して欲しいとの、依頼があった。
紹介して差し上げたのは、私と長い間付き合いのある弁護士ではなく、顔見知りの比較的若い弁護士である。若いといっても50歳前後であった。高岡さんは遺言の依頼をしたかったのだ。
 私と付き合いの長い方の弁護士は、当時60歳を超えていて、胃の手術をされた直後とあって、遺言書を頼むのであれば、やはり若い弁護士さんがよいだろうと判断したからだ。
しかし高岡さんがこの弁護士と会ったのは一度切りだった。
結局遺言書は自筆で認められた。彼女を看取った伊藤さん夫妻から、自筆の遺言書が私の元に届けられたのは、亡くなられてしばらくしてからのことである。この遺言書はその解釈を巡って、一騒動を起こすことになる。
 彼女には、兄弟姉妹やその子供たちに相続人に該当する者が数人いたようだが、相続人には遺産の分配を指示しなかった。身内に渡したくないということは、生前彼女の口から私も聞いていた。親族に対しては苦々しい思い出のみがあったのだろう。
 高岡さんがどれほど縁者を嫌っていたか。何でもその1人がこの寺にお参りにきたときのことである。住職が直々に墓地に案内したのであるが、それが間違って違う人のお墓に行ってしまったというのだ。高岡さんに味方する諸霊が悪戯したのだろう。これは当の住職が不思議がっていた。
私の勝手な想像であるが、幼年時代の豊かで満ち足りたであろう生活も、戦後は一変し、面倒を見てきたはずの親類縁者は寄り付かなくなっただけでなく、掌を反したのだ。世間にはよくある話だ。
 私が紹介して差し上げた弁護士とは1度会っただけで、彼女がこれを嫌ったということを、うかつにも私は知らなかった。遺言の方法だけを相談したと思っていた。
「倉矢さん、あの弁護士ダメよ」と私に告げなかったのも、彼女の私に対する気遣いだろう。
 高岡さんの遺言書が私に届けられたとき、前からの関係を考えて、実はこの弁護士にその執行を頼のではどうかと提案したのだ。これは私の二重の粗相である。
 弁護士は遺言書に対してとんでもない解釈をした。相続人以外には遺産相続の権利がないというのである。遺言書はよほどの間違いでもない限り、十分な効力を有するものだ。しかも高岡さんらしく、几帳面に一字一句をゆるがせにはしていない。ただ素人の悲しさで、多少誤解を生むような表現があったことは事実だ。しかし全体を通して読めば、プロである弁護士がそのような初歩的解釈ミスを侵すことはないだろう。
 依頼者の正義を顧みないこの弁護士は不誠実極まりない男だ。以後付き合いはない。
その後で判ったことであるが、その相続人の中に税務官吏がいた。どうやらこの税務官吏が弁護士を脅かしたのだろうと思う。ということは、この弁護士、税務署に対して後ろめたいことがあったのだろう。
このことを知って高岡さんの勘の鋭さ、人を見る目の高さを改めて実感したものだ。弁護士に面会をして、その僅か1時間か2時間ほどで、彼女はこの弁護士のひととなりを理解したのだ。
士業には廉潔性が要求される。自身に弱みがあると、関与先が税務署や利害関係者とトラブルを起こしたときにこれを守れない。私自身は開業して以来、この廉潔性を忠実に実行しているつもりだ。すべからく税理士は清潔であれと私に教えたのは、飯塚毅。TKCの創業者で、哲人といっていい人だ。この人も亡くなって久しい。
しかし廉潔性、清潔性というのは、士業だけに要求されるものではない。一般の経営者にも当然要求されるものだ。モラルとして従業員に期待するものであれば、それは率先して経営者が守るべきものでもある。しかし大方の経営者は、この点に理解が足りない。
高岡さんはこの点おいても勝れていた。経営者としての、立ち居振る舞いは清潔の一語に尽きた。

結局この遺言書は、その後2人の弁護士を回ることになる。その3人目の女性弁護士が、高岡さんの思いに従った正しい判断をしてくれた。これも想像であるが、2人目の弁護士も相続人である税務官吏の干渉を受けて、ふにゃふにゃになったのだろう。 

高岡さんから、最後のファックスを頂戴したのは、彼女が入院をする当日のことで、そこには、元気になって帰ってくるから、入院は誰にも喋らないで欲しい、また見舞いにもこないで欲しいと書かれていた。その入院が最後のものとなることは十分承知していただろう。私は約束を守って、彼女が入院したことは誰にも言わなかったし、またお見舞いにもいかなかった。いや、入院直後1度だけお見舞いを持って病院を訪問した。詰所にお見舞いを届け、彼女には合わずに帰った。
誰にも言わなかったが、彼女と親しい人たちが気づくまでに時間はかからなかった。
 高岡さんの人に接する態度は終生変わることはなかった。事業を後継者に任せ、一切の容喙をしなかったところにも、それは窺える。
退職後は、ご主人と旅行に出かけることを楽しみにしていたが、直後にご主人は他界され、彼女も病気がちとなった。

入院後の高岡さんについては、あまり知らない。世話をされたのは近所の人と、伊藤さん夫妻だ。
高岡さんは私にこんなことを言ったことがある「私ね、タクシーには乗るんだけれど、社員には運転を頼まないのよ、だってよ、もし事故を起こしたら可哀そうでしょう」。このような気の遣い方をされる人であった。その彼女が日々衰弱に向う体を、近所の人の世話を委ねざるを得なかったのである。

最終的に財産は相続人の手に渡ることはなく、遺言書の内容そのままに分配され、お寺にもその一部が渡った。
初めて会う住職は私と同い年で、実直な人柄であった。それは、高岡さんのお墓の設計にもよく顕れていた。住職は喉にポリープができ易い体質だそうだ。美声の持ち主で、読経は心地よく全身に響いた。ポリープを気にしながらも読経を始めると嵌ってしまうのだとおっしゃっていた。
お墓は無縁墓地として作られた。墓地の後の納骨堂は広く、大理石の壁に掲げられる戒名も、数多く並べられるように設計されてある。
つまり今後、納骨者が増えていく限り、お参りする人も絶えることがないということだ。
これも高岡さんのアイデアであった。
すでにある有名なシンガーからも、将来納骨の申し出があったと聞いた。名前はフォーク・クルセダースのメンバーの1人であるとだけ紹介しておこう。
食事の席であったか、和尚から税務調査を受けた話を聞いた。先ほど書いた相続人である税務官吏が何度か、このお寺を訪れたようである。調査はその直後に行われ、2月ほど続いたらしい。結局何もなかった、と言って笑っておられた。
 私が高岡さんから好かれたとすれば、その1つの理由に私が南紀出身であることが関係していたのかも知れない。高岡さんは生前「今までに出会った和歌山出身の人は、いい人ばっかりだったわよ」とよく言っていた。実は私も島根県出身者で、悪い印象を持ったことはこれまでにない。
それに和尚も和尚の奥さんも、その母上も接していて心地いいのである。
島根県人と和歌山県人は、気質に親和性がありそうだ。思えば島根には出雲大社があり、熊野もまた神様が籠もる土地柄である。
見晴らしのよい墓地で、実直な住職家族のお守りを得て、そこが高岡潔子さんの安息の地となった。この墓地には、今後多くの霊が集うことになるのだろう。やっと彼女が追慕して止まなかった家族ができていくのだ。
薄れていく意識のなかで、彼女の最後の言葉は「おかあさん」だったそうだ。
7年忌に集まったのは10名。高岡さんが後生を頼んだ伊藤さん夫妻、元仕入先や近所の人、それに私。親類縁者の姿はなかった。