釈迦の御舎利

仏教はお釈迦様の発明である。しかしこの世の発明というのは、もともと天然自然にある法則や原理原則を発見して、それを体系付けたものだと考えるなら、お釈迦様が仏教を発明したという言い方は、間違いかも知れない。お悟りという表現はまさしくそのあたりの呼吸を表現したものか。
お釈迦様は自らがお悟りになられた真実を説くことについて最初は悩まれたということである。それはその真実があまりに、世間の常識とは懸離れているがゆえ、世に受け入れられるかどうかということだったらしい。
難行苦行の末この苦業自体を無意味とされたのであるが、そうした難行苦行がなければまた易行の道もなかったわけで、それを受けて私のような凡々人が、難行苦行を無意味だということはそれこそ無意味なことだ。 
 現在、仏教には84,000の法門、5,400余の経巻があると言われるぐらい、色々な教えや経本が出ている。たとえ私などが我流で阿弥陀経をたどたどしく読んでも、意味が判らない。いやたどたどしく読むから意味が判らない。部分的に辞書などと首っ引きで読んでもやはり意味が判らない。もっと有体にいえば、そもそも理解力がないのだ。
 有情どもがその人生経験から割り出した牢固なまでの思い込み(観念)と一知半解の知識を金科玉条として、正しい真理と比較すれば、大抵は前者が勝つに決まっている。自らの狭い了見の外にあるものは素直に読めない。従ってお釈迦様は御自身の悟りを伝えるべきかどうかお悩みになられたのだろう。
 今ある教団で、スリランカに伝えられてきたお釈迦様の御舎利(御遺骨)が、奉納されている。暫くの間、誰でもが参詣できる。私も早速日曜日(9月6日)家を7時出発して行ってきた。 聞いたところによると、スリランカからの大使級使節団も20名ほどいらっしゃるそうだ。
 広い境内であるにもかかわらず、本堂には大勢が詰め掛け参詣の時間は1~2秒ぐらいであった。この仏舎利はスリランカにおいて2,000年もの永きに渡って、大切に護られてきたものであるらしい。
 ネットを開くと、この教団についての書き込みが多くあり、まるでオームのような書き方をされている。皆、自らの観念の信者なのである。そもそも一瀉千里で走る情報にどれほどの真実があるというのか。
一度この本堂に参詣されてみるがよい。そして寺院や、その技術の粋を集めた梵鐘や鬼瓦、仁王像、鎌倉室町期に活躍した穴太衆(あのうしゅう)の子孫による見事な石積み、植生された木々を丹念に見て回ることだ。無責任に非難することにはためらいが生じると思う。かの浅原彰晃のサティアンのような不潔さは微塵もない。
 で、御舎利はどのようなものであったか。これはまあ書かないでおこう。というより、長蛇の列で、ゆっくりと拝見する間がなかった。
 ある教団とは念仏宗三寶山無量壽寺。東条湖の近く,秀麗な山並みの懐に抱かれてそれはある。