刀匠

河内國平氏は奈良県東吉野、三重県との県境に工房を持つ刀匠である。7月の15日と16日、ご縁を頂いてその工房を訪ねた。
 鍛冶場に入ったのは15日の3時頃、工房は真っ暗で、入った当初は目が馴れず足元が覚束なかった。
勧められるまま、這うようにして10歩ほど歩き片隅のほうに目をやると、座ったままの男が炎に照らされながらその炎を一心に視ていた。
鍛冶場の主、刀匠である。
左手でフイゴの把手を調整し、刀身となる鋼(はがね)の打ち時の温度を、炎の色の変容で確認していたのだ。暗くしているのはそのためである、と気がつくのにしばらく時間が掛かった。刀匠はその炎を観察し、頃合を見計らって棒の先に載せた真っ赤な鋼の塊を台の上において力いっぱいに叩く。
締め切った真夏の鍛冶場は燃える炎で更に熱く、しかし刀匠の凛とした気迫がそのまま工房の空気となって張り詰め、お弟子さん方の緊張となっている。その侵しがたい緊張は珍客の一人である私にも伝わる。
片隅で松炭を切っていたお弟子さん三人は、刀匠の合図で向槌を打つ。寂として声なく、それでいて呼吸は見事に合っている。真っ赤な鋼からは大きな音とともに火玉が四方八方に飛び散る。掛け声はあの緊張のなかでは返って精神集中の妨げになるのであろう。
同じ作業が何回か繰り返された後、刀匠は手を休められ、我々を二階に通してくれた。その柔和な横顔は工房のそれとは違う。気難しい職人肌の人であると想像したのは、まったく外れた。春風駘蕩、刀匠と知らなければ小柄で気さくなおっちゃんといった風情だ。
 ご夫婦で刀剣の説明、心配りと我々を接待して下さった。それが実に楽しそうで明るくいらっしゃる。
 話から刀匠の正宗や一文字など故人が残した名刀への憧憬と、刀匠の師匠に対する敬愛の念を知る。そうした憧憬と尊敬が作刀への情熱の一助となって、刀匠の今日を形成しているようである。
尊敬すべき人物を持たない人は不幸だと思う。更なるに不幸なのは、ただ経済運に恵まれることのみを持って、幸福と感じていることである。何のために人と生まれたのかしらん、ということだ。そう思いつつわが身を振り返れば、己は打算の塊でしかない。
作刀の世界は、すべて様式の世界である。炭は松炭。松以外では火力が適当ではなく、燃やした後の灰は熱処理の障害となるのだろう。松炭なら燃やした後に灰は殆ど残らないという。
装置としてのフイゴも使用する道具も昔からの練り上げられた形があるようだ。それは素材である玉鋼にしても同じである。
刀鍛冶は古来のまま、変わらぬ同一の制約のなかで自らの技術に工夫を重ねることになる。
尊敬すべき先達への想いと工房での工夫が刀身という様式美に収斂していくのである。
刀身の姿は歴史を超えてほぼ一様である。それは命の遣り取りの道具であったことに始まり、人工的な極めて人工的な美へと昇華した。
またその美たるや、刀身の微妙な刃の文様であり、妖しい輝きであり、硬度であり姿である。刀匠には正宗も一文字も同世代人の作品なのかも知れない。
 日本刀はまた陶器とも違う。陶器は色と形が無限に変化する。いわゆる遊び心が許される。鍛冶場の緊張は、刀身の緊張となって顕現し、殺傷の凄みが表現されなければそれは刀とは到底言えまい。
「日本刀の魅力」に樂吉左衛門氏がこう書いていらっしゃる「微かな傷もあってはならない、ある究極の完成に向かって、ひたむきな打ち込みが刀に命を吹き込む。偶然の釉の流れやひび割れなどに決して私情を寄せはしない。そこでは刀と焼き物は決して相容れない世界を有していると言える」。
 それはまた、商業的な物造りでもない。自動車がバッテリー駆動になれば、バッテリーは電気メーカーから買えばよくなる。したがって自動車メーカーでなくとも車の組み立ては可能となって、デザインのみが自動車の命になる。どこまで行ってもコストとデザインの競争になるだろう。自動車はいわば無限に拡散することで、この世の利便に帰する道具である。
 刀匠の言ではあるが、東吉野の山奥であるからこそ、続けられたとおっしゃった。工房が友人と誘惑の多い難波の駅前にあれば決して続けられなかったということである。そう語る刀匠にけれん味はなく、等身大の親しみを感じた。
忍耐と辛抱それに努力が要求される。才能は必要がないと述懐されていたのが印象的であった。
 刀匠は元々が左利きであるともおっしゃつた。それを刀鍛冶の工具は右手で使うように設計されているということで右利きに変えたそうだ。
私も元は左利きである。左利きというのは、この世では結構不便なものである。これは当事者でなければわからない。箸は右手で持っているが、いまだにぎこちない。では今、左手で箸が持てるかというと持てない。感覚的には左手のほうが器用でかつ遣い勝手がよい。しかし無理に右手を遣うことで、両手ともそれなりに器用になった。
刀匠の場合も作刀の上ではそれは役に立っているのかも知れないと思うのである。
例えばフイゴの火力調整などは本来の利き手である左の方が微調整がしやすいのではないか。右手で道具と材料を扱うことは、いわば右手は道具や材料に対して常に違和感を持つことになる。それは右手が否定されているのと同様であるから、右手の使い方は慎重にならざるを得ない。
 刀匠がお書きになった「日本刀の魅力」を求めて、真っ先に読んだのは夫人の手による「鍛冶屋の女房」であった。その中の一節に「隅谷先生の華やかで、柔らかい変化のある丁子場を見た時「主人ならできる」と直感的に思いました」とある。これは結婚十三年目にして、刀匠の師である宮入昭平に学んだ相州伝に行き詰って、石川県の隅谷正峯師に再入門したときの話で、刀匠四三歳のときのことである。
 夫人も刀剣にかけては目利きなのだ。鑑定眼に優れていて、主の才能を信じきっていらっしゃる。いわゆる俗にいう御神酒徳利、刀匠とは無限の信頼で結ばれているのである。その信頼に裏打ちされていたからこそ、育ちざかりの子供四人を連れて石川までいかれたのであろう。その時代、自らはアルバイト、子供さん方は新聞配達で家庭を支えたという。これまでの三十数年、ご夫婦で刀を打ってこられたのだ。
 二日目の朝、幾振りかの刀を我々に見せて頂き、その鑑賞方法も伝授頂いた。
 歴史を継いで、いつの時代にも河内國平刀匠が現れて欲しい。そのような想いを抱いた二日間であった。

 刀匠の話では、全国には現在400名ほどの刀鍛冶がいるそうです。実際に作刀に携わっている人はおよそ200人。私らが訪れたとき、若いお弟子さんが3人いらっしゃいました。3人とも20歳代と思われましたが、街で見かける20歳代とは、やはりどこか違うなと、頼もしく思いました。
 その200名にそれぞれお弟子さんが3名いるとしたら、全国では、600名の後継者がいることになります。また刀は刀身だけではなく、研師を始め、鞘,鍔(つば)、柄など拵(こしらえ)の製作に携わる職人さんがいるわけで、そう考えると刀鍛冶というのは、産業としてそれなりに裾野を持っていることになります。お弟子さん方はその修業期間(通常は5年ほど)は無給です。この社会にはまだ師匠と弟子の関係が脈づいているわけです。
 しかし、問題もあります。例えば刀身の基になる玉鋼ですが、これは現在島根県の、一箇所のみで作られていて、その玉鋼を作る職人さんも現在1名を数えるのみということです。なおこの話は河内刀匠から聞いたことではなく、私の知人の話です。
 製鉄技術は弥生期に大陸からもたらされ、それが日本刀へと発展してきたのですが、日本刀は現在、美術品としての価値があるのみです。それにも拘わらず、この日本においていまだに作刀が行われていて、しかも若い世代がその世界に飛び込んでいくような魅力もある。ということに私は感慨を覚えます。
それは沈みゆく夕日にもにて、きっと日本人の美意識に叶うところがあるのでしょうね。
 刀鍛冶とそこから生み出される麗しい日本刀が、わが国で永久に息づいていってほしい。そんな感慨を覚えた2日間でした。