消費税(19.10.30)
消費税の税率改定がマスコミに登場するようになった。昭和63年暮に、消費税法が国会を通過し、その後5%に税率が改定され、今またその増税が俎上に登ろうとしている。
消費税の負担者は理屈の上では消費者であるが、実際はその流通の過程で事業者が負担している。私の観るところ法人税の計算も消費税の計算も構造はほぼ同じである。
それらは収入から費用を差し引きして算定される。但し、収入の取り方と経費の取り方に若干の差はある。日本の消費税は帳簿方式であるから、前段階の税額控除はインボイス方式によらず、課税対象とされる取引であれば、消費税が加算されているいないに拘わらず5/105で抜き出して計算することになる。
景気が回復してきたといわれているが、そうではない。青息吐息で溜息しかでないような企業もある。もしこれで消費税が上れば弱小の業者は弾き飛ばされるであろう。メーカーであっても今や大手小業者の下請けみたいなもので、メーカーに価額決定権はない。
小売業は消費税の上昇分を価額に転嫁しないように、メーカーを叩くことになる。
メーカーも売値が他律的に決定されるものだから、そのシワ寄せはいきおい弱小の下請けに行く。下請けは消費税が上れば一部を除き大きなダメージを受けることになる。
そのうちメーカーが小売をやる時代がくることになるかも知れない。そうすれば今度は小売業が成り立たなくなってくる。かくして、弱小の流通業者やメーカーが弾きだされ、そこで働く人たちは職を失い、あるいは賃金が低迷して健常な消費者では無くなってしまうことになる。またメーカーも流通業者も鎬を削って価額競争に没頭することになるため、消費税率は上げても、付加価値部分が限りなく少なくなるから、税額は増えることはない。
消費税が低迷すれば法人税も低迷する。それは先にも書いたように計算構造は消費税も法人税も基本は同じだからである。もっと云えば、法人税と消費税は二重課税の疑いさえもある。
消費税率を上げても、景気への刺激がマイナスに作用するのであれば、国は弱者の生活保護をしなければならなくなる。税率を上げた結果税収が下がり、さらには弱者の面倒を見なければならないことで国の負担が増えるのである。
渡部昇一先生は、所得税一律10%で、国は十分に回っていくと説いた。その根拠は渡部先生の師匠であるハイエク先生が、その説を唱えた、ということと、日本のお役人と話をしたときにやはり同じように所得税一律10%もあれば国の税収は十分であると聞かれたことがその根拠になっていたかと思う。10%なら、重税感もないであろうとも書かれていた。
では、所得100万円の人と、所得1億の人を同列で論じてよいのかという問題に行き当たる。所得100万円であれば、税金は10万円。所得1億円であれば税金は1千万円である。理性では10%であれば納めやすいと思うかも知れないが、実際に納めるとなると、その額を考えてしまう。矢張り10%は大きいと思うに違いがない。
所得100万円しかない人にとれば10万円の税金は生活を圧迫するに十分な額である。
所得が1億であっても、1千万円を机に積んで眺めれば矢張り負担に思うだろう。
税制は課税技術論的な要素でのみ考えるのは間違いであり、風土や生活慣行も視野に入れて考えるべきである。
消費者が王様であると考えるような現在の風潮からは、健全な納税を考えることはできない。税の根底には民の安寧満腹ということがなければならない。その視点から、税制を考えるなら、経済的合理性のみから成り立つ、剥き出しの自由主義競争に基礎を置くような社会風潮は改めねばならない。
また全てが個人の責任であると云われても、人間はそんなに賢くはない。
やはり各業種業態が保護されなければならない。弱い業者と強い業者を同列で論じてはならない。消費者は一面においては生産者ないしは事業者である。
消費者至上主義ではなく、人間至上主義に改めねばならないのである。
しかしここまで書いてくると、税制の問題は社会の問題でもあるが、それは矛盾だらけで論点の整理のしようがない問題でもあることに気づく。
業種業態の保護といっても、あるいは消費者至上主義、ないしは人間至上主義といっても政策レベルでは、対処の方法がないであろう。人間至上主義というような考えそのものがナンセンスである。つまるところ人間社会というのは、最低命さえ保証されるような制度があれば、あとは妥協でしかないのかも知れない。
いずれにせよ、社会を健全に持続させるという視点から、とりあえず消費税の税率を上げないような工夫が望まれると思うのである。