秋の気配(19.9.22)

今年の9月は暑い。いや昨年の今頃のことは忘れているから、本当は去年の9月も暑かったのかも知れない。しかし注意を傾ければそこここに秋の気配を感じる。それは空の高さであり、路傍の草木であり、それに妙に人が恋しい。
 しかし人が恋しいという感覚は、ただ季節の移ろいからだけのではないのかも知れない。
今月の1日(土)一緒に洞川で一泊し、その翌日大峰山系のいずれかに登ったはずの友人税理士がいまだに行方不明であったり、長年お付き合いを頂いている同世代の社長が癌で入院したりで、命の儚さにあらためて感じ入っているということも作用しているのであろう。
 それにしても、生きる感覚というのは不思議なものである。歴史を辿れば青史に名を残して世の尊敬を集め、人類の進化向上に努めた人もいるが、おおかたは無意味に生きてこの世を去る。本来の生は無意味で無目的なものというのが正解か。そう割り切れば肩の荷が降りる。
流れに棹さしては流され、地に働いては角ばかり立てている。性格ゆえか意地を通すようかことはあまり無いから、その点まあ救われている。生への執着が人生を緊張させ、その緊張が本来豊かに持っているはずの感性をリセットしてしまうのであろう。
60年近く生きてきて、失ったものは多いはずであるが、何を失ったかは定かでない。故人曰く「天上の月を愛でて、掌中の玉を逸す」。玉は知らぬ間に私の手の間をすり抜け、どこかに消えたのであろう。しかし天上の月が手許に届いた気配はない。だが月への思いは消えることはない。
生への強い思いは破滅への不安でもある。それは経済活動への飽くなき挑戦となり、生命に対する慈しみや恋しさを排除して、憎悪と嫉妬、敵愾心を生む。
私もそろそろ肩の荷を降ろそうか。無目的を金科玉条としてアッケラカンと生きる。どんなにか楽だろう。しかしできないだろうな。長年の薫習のもと意識に深く刻み込まれた不安は、死ぬまで私から去ることはないだろう。
私の今にも似て秋はまだ入口である。晩秋には何を想うのか。