30回忌

父の30回忌で正福寺の門をくぐったのは午後の1時であった。6月になったばかりの日曜日で、初夏の蒸し暑さも、掃除の行き届いた境内は霊気が漂い、ひんやりとして心地かった。正福寺を訪ねるのは久しぶりである。
 集まったのは私と妻、長男の卓、弟夫婦とそれに父方の従兄弟が2人である。
 住職は今年90歳、腰も曲がった。この村では親戚筋を除いて唯一といってもいいぐらいの顔見知りである。村を出て38年が過ぎた。顔見知りが少ないのは当然といえば当然なのかも知れない。
代々が正福寺の檀家で、私がこの村を離れてからも、父母の葬儀をはじめ、先祖の年忌はいつも正福寺で執り行ってきた。ご先祖の墓地も正福寺の境内にある。
読経には住職のほかに、坊さんになりたての住職の孫も並んだ。卓よりは2歳年上のはずである。痩身色白で目が澄んでいて、なかなかの好青年に育ったものだ。黒髪が薄墨の衣に映えて、その体躯からかもし出る雰囲気は既に和尚である。
 老住職の長男、つまりこの青年僧の父も坊さんであるが、寺を出奔して久しい。
老住職は、柔和な笑顔の持ち主で、飄々としたところがいかにも坊さんらしく、法話も上手ときているから昔からこの村では人気があった。
それに比べると出奔した長男は評判がよくなかった。酒癖が悪いだけでなく檀家への無心もあったようだ。村では代が替れば檀家は離れていくだろうというのがもっぱらの噂であったが、そうしたことが起こらなかったのは老住職が今日まで元気だったおかげである。
 老住職は、不思議な力を持っていた。昔、山籠りをしての修業中に不動明王の夢告でその力を授かったそうだ。
不思議な力というのは、懐妊した婦人が、懐妊後200日から250日の間に住職から作法を受けると腹の子は六道界に落ちないというのである。前世において修行を積んだ、いわば選ばれた命が法力によりその肉体に入るということらしかった。
それには証があって、住職の作法を受けた母親の子は生れ落ちたとき、臍帯が透明なのである。
その作法は正福寺の本堂で午前2時に始まった。住職は沐浴の後、白い装束を身に纏い、香が焚かれる。正装した夫婦は目隠しをされ、それから掛け軸に描かれた不動明王の正面に並んで正座をする。住職は短い呪文を唱えた後、あらかじめ用意した神饌水で口を清め、目隠しされた夫婦の眉間に息を吹きかけて作法は終了するのである。
それは住職の知る人ぞ知る秘儀であり、だれかれなしに授けられるものではなかったが、母が私を懐妊したとき、その作法を受けたし、弟も受けている。
妻が卓を身籠ったときも受けた。生れ落ちた卓の臍の緒は透明で血痕がなかった。ただ透明といっても、清水のような透明さではなく、やや白味を帯びた無色といえばいいのだろうか。卓を取りあげた病院の助産婦は、卓の臍の緒を見てしきりと不思議がっていた。
そうしたことが近郷における住職の評価を高め、檀家も増えたようである。しかし、ある時期、住職はその法力を自ら封印してしまった。それは寺の2代目である息子が酒に絡んで刃傷沙汰を起こし、警察の厄介になったことが直接の原因であった。
妻が次男の浩を懐妊したときも、この作法を受けようとしたが住職は既にそれを封印した後であった。
 一通りの読経が済んで、茶と菓子がでた。老住職は私らを相手に縁側で話をした。それはどうやらジャータカの一説かと思われた。腰が曲がったとはいえ、90歳とは思えぬぐらい声にはハリがあり、記憶も確かなものである。
 雷鳴がとどろき雨が降り出したのは、そんなときであった。大粒の雨が門の屋根瓦を激しく叩き、白い泡沫が10センチぐらいの帯状になって黒い瓦の上で踊っている。
 と、老女が門に走りこんできた。
縁側からは門までは20メートルぐらいの距離があろうか、こちらには気づいた様子はなく、タオルを取り出し左手で濡れた衣服を拭っている。
 見覚えがあった。康子ではないか。康子は私の小学校、中学校を通じての同級生である。右手が不自由で目立つ子ではなかった。
 康子は私と同い年であるから、現在55歳のはずであるが、それにしては老けて見える。
 康子は字を左手で書いていた。それが何となくぎこちなく、暗い印象を周囲には与えていたものだ。
康子の成績は抜群に良かったが、変わった子であった。いや変わっていたといっても、康子自身にはその意識がなかったかも知れない。いや変わった風を装って一人でいることを好んでいたのかも知れない。
休み時間は何をするでもなく、椅子に腰掛けたままじっと座っている子であった。授業中、教師から当てられても、俯いたままで答えようとはしなかった。
 それは、頭の悪い子のものではなかった。頭の悪い子なら、自信なげに目がおどおどして、顔が赤くなったり、口がもごもご動いたりするものであるが、康子はそうではなかった。ただ下を向いたままなのである。下をむいたまま平然と足元を眺めているのが、そうしたときの康子であった。顔が赤くなるのでもなければ、口がもごもごするのでもない。
康子とは小学校1年生から中学を卒業するまでの9年間で、同じクラスになったのは5回ぐらいか。
 田舎の学校のことで、私の学年のクラスは小学校と中学校を通じて3クラスのみであった。ときおり、教師や駐在の子供が、親の転勤に伴って入れ替わるぐらいで、生徒の移動も殆どなかった。
 新米教師も康子が解ってくると、質問をするのが煩わしいのか、あるいは成績があまりにも優れていて、一目を置いているのか、指名をすることはなかった。
 しかし5年生のときだった思うが、康子のそうした性格を直そうと試みた教師がいた。当時、学校では午後の授業終了後に20分ほどかけて掃除をするのが日課であった。
掃除は5年生、6年生の高学年が中心となり教室、廊下、窓、黒板、運動場と割当てを決めて、それに従って掃き掃除から、雑巾がけまでをした。
 ところが、康子は割り当てを避け、いつも自分で決めた窓のガラスのみを拭くのであった。窓ガラスの拭き掃除は一人を好む康子には都合のよいものであったのだろう。
その教師は康子に、運動場の掃き掃除を促した。掃き掃除は何人かの協調作業である。しかしこの協調作業が康子にはできなかったのである。いや意図して、しなかったといった方が正確かも知れない。
康子は教師から注意を受けても、自らが決めた窓のガラス拭きをやめようとはしなかった。教師は何日かに渡って運動場の掃除を命じたが無駄であった。そのうち康子は窓ガラスを拭くことさえ止めてしまった。
そういえば、こんなこともあった。康子が、国語の教科書を忘れたのである。教師は、職員室からその予備の国語の教科書を持ってきて康子に与えようとした。康子はどうしたわけかその教科書を受け取らないのである。教師から質問を受けたときと同じように俯いてままで、手渡そうとするその教科書を康子は、手で払いのけて教室の外に出てしまった。
 康子に悪気がないのは、その表情から見て取れた。教師を快く思わないで、教科書を受け取らないのであれば、その目つきや態度からわかる。大きな悩みを抱えている様子もないし、自閉症のそれでもない。康子からはそうした病的な印象を受けたことはない。
 康子にはそれがごく自然なふるまいでもあるかのように私には見えたことだ。康子はそれを、世間の常識であると思っていたのだろうか。澄ましているのでもなく、気取っているのでもない。暗いわけでもなく、いじけている風もない。康子のそうした態度は9年間を通じて変わることがなかった。
 康子のテストの成績はずば抜けて良かった。但し体育を除いての話である。しかし走るのは、遅いほうではなかったと思う。一度、誰もいない運動場で康子が一人ランニングをしている姿を見かけたことがある。右手を庇ってか全力で走るわけではなかったが、膝が高く上がり、足が素直に前に出て、体は地面に吸い付くような走法であった。
 体育の時間や、運動会での康子は見たことはない。それは徹底をしていた。その時間はどのように過ごしていたのだろう。
 康子に返却されるテストの成績は、殆どが満点であった。
しかしそのテストの返却を受けても、康子は喜ぶでもなく、ごく当たり前の顔でそれを鞄にしまうのである。また勉強が取り立てて好きという風もなかった。
 中学生のとき、康子の絵が学校の展覧会で特賞に選ばれた。
丑を描いたものであるが、その丑は大きな目をしていた。ただ描かれたその丑の目が顔の半分を占めるほどに大きいのである。
そうして描かれた目でありながら、カンバス全体の中では違和感がなく、二重の澄んだやさしい目をした丑であった。
 私は、日常の康子と康子が描いたその丑がいまだに結びつかないのである。
 康子が友達と話すのも見たことはなかった。それでいて虐められるわけでもなかった。
それは康子が周りからの干渉と一切の没交渉であったことと、大いに関係があるのであろう。腕白も意地の悪い子もいたが、そうした連中も康子には一目を置いているようであった。
康子はいつも一人で学校に来て、一人で帰った。
それでいて、卑屈というのでもない。いつも右手を庇うようにしていたから、それが康子周りには康子がさらに暗いように見えただけで、本当は康子には右手が不自由なことさえ、気にはなってなかったのかも知れない。
康子の家も正福寺の檀家であったから、康子も住職からは作法を受けていたはずである。私と弟は親から、作法の話はよく聞かされた。
聞かされた、というよりそれ以前に母の胎内で直接聴いた、と言ったほうがよいのかも知れない。確かに聴いた。聞いた瞬間、弾けるような感覚があり、生れ落ちた後もその記憶は今日まである。しかしひょっとするとその感覚というのも、両親から何度も同じ話しを聞かされるうちに、後から空想したことなのかも知れない。
いずれにせよ55歳の今日に至るまで、人生に不安を感じるようなことはなかった。私は別格なのだ、大丈夫なのだという安心がいつも私を支配していた。
バブル崩壊後、立て続けに2度に渡って手形の不渡りを受けたことがあった。世間では私の建設会社が直ぐにでも倒産するような噂が流れたが、私は案外平気だったし、その後も会社の経営は順調である。
不渡りを受けた直後は確かに資金繰りが大変であった。しかしその倒産会社から出た、2人の優秀な社員が創業を果たし、そこからの受注が、その倒産会社の受注を凌ぐようになるまでに、時間がかからなかった。
康子も同じように、親からその作法の話を聞かされて育ったであろう。いや康子の場合も胎内で、住職の作法を直接感じ取ったのかも知れない。
康子はこの世の時が流れるのを、ひたすらに待っていたのではなかったか。
生れ落ちる以前から、命終まで無事己が肉体を養いさえすれば、この世の生で五戒を犯しさえしなければ、六道界とは縁が切れ、不生となることを知っていて、世間との距離を置いたのではないか。
老女は、静かに門に立ったままである。長い期間農業に従事してきたからであろうか、やや腰が曲がっている。康子の家は、この辺りではかなり裕福な農家であった。田畑を多く抱え、米だけでなく養鶏やブドウの栽培もやっていた。子供の頃の康子を思うと、農業は康子に向いた仕事のようにも思えた。
 雨はさらに激しさを増した。住職の孫が、傘をその老女に持っていくと言い出した。
住職はその老女に眼を向けた。探りを入れているようであった。ややあって「ほうっておけ」と言った。老住職はこの老女からなにかを感じたようである。私もその老女が康子であれば、その方が良いと思った。
 しかし青年は、傘を持って走り出た。それは青年期にありがちな、しかしあまり意味のない正義感のようなものであったのだろう。
小走りに門に近づき傘を老女に差し出した。老女は俯いたまましばらく青年僧の話を聞いていたようであつた。青年僧がどのように話しをしているのかは激しい雨の音で、聞くことは出来なかった。
 ややあって老女は傘を受け取らずに雨に走り出て、すぐに視界から消えた。青年はあっけに取られて、しばらくその姿を見送っていた。
 「魂というやつはなあ・・・」一部始終を観察していた住職がポツリつぶやいた。
 雨は2時間ほどで止んだ。太陽が雲間から覗き、紫陽花の葉の水滴が西に傾きかけた日の光を受けてキラリと光った。
 寺を辞して親子3人は、車に乗った。寺の駐車場を出ると、しばらくは田圃が続く。
田圃には水が張られ、早苗が植えられている。その田圃の匂いを嗅ぎたくなって、車の窓を少し開けた。
 やがて、助手席の妻は寝息をたてだした。卓は後ろでアイポッドから音楽を聴いている。思えば卓は手のかからない素直な子である。私がある時期、親父に見せたような反抗心を卓は私に取ったことはない。本日の30年忌も、高校生である浩は友達との約束がある、といって着いてこなかった。が、卓は素直に従った。
 卓には友達が少ないようであった。女にも興味があるかどうか判らない。妻はそのことが気になるらしい。
卓の体型は母親似である。しかし気質は私とも妻とも違う。あの青年僧が、老住職にも、その父親にも似てないようにである。
それにしても先ほどの老女は、あれは康子だったのか。雨の中の走り出た小柄な女を私は思い出していた。「魂というやつは・・・」思わず住職のつぶやきが私の口から飛び出した。

あとがき
 この文は原点の会で、高橋宗寛和尚から聞いた話を、大きく膨らまして書きました。勿論、和尚は以上のような、しかもかなり怪しげな話しを長々とされた訳ではありません。
あるお寺で、老住職がやめておけというのに、若い坊さんが傘を貸すと言い出して差し出したところ、出された方は平身低頭して断った。その若い坊さんと傘の提供を受けた人の薫習を受けたような牢固とした態度が、それぞれの生地のようであったといった風な話をほんの少しされたのですが、それがあまりに面白かったので、別の角度から作文にしただけの話です。この話しをどうして取り込めばよいのだろうと考えたとき、私の場合、このような形でしか表現の方法が思いつかなかった、といったところかも知れません。
ご笑読下さい。
高橋和尚様、話しを勝手に借用変形してすみません。