Dハウス工業の経営理念19・6.9(土)

縁あって、平成18年初頭に、Dハウス工業から同社の50年史を頂戴した。837ページに渡る厚い本で、装丁も丁寧、カバーもしっかりとしていて、社史製作に携わった人たちの思い入れの深さがひしひしと伝わってくるような代物である。銘は「Dハウス工業の50年」と認められている。最初に書かれている、企業理念(社是)を紹介させて頂く。

一事業を通じて人を育てること
一企業の前進は先ず従業員の生活環境の確立に直結すること
一近代化設備と良心的にして誠意にもとづく労働の生んだ商品は社会全般に貢献すること
一我々の企業は役職員全員の一糸乱れざる団結とたゆまざる努力によってのみ発展すること
一我々は相互に信頼し協力すると共に常に深き反省と責任を重んじ積極的相互批判を通じて生生発展への大道を邁往すること

この企業理念(社是)は、昭和30年4月に資本金300万円、社員18人、いわば駆け出しの中企業時代に作られている。当時の社会情勢といえば労働運動が猖獗を極め、労使間の対立が日常茶飯事であった。その時代にこの理念を掲げられたのだ。
 創業者はI氏である。Dハウス工業の歴史は知らずとも、現在のDハウス工業はどなたでもご存知であろう。
 昭和30年、創業と同時にこの企業理念を策定されて、日本に冠たる大企業を創られた。
 企業が経営理念の制定に際して、その冒頭に人の育成と、従業員の生活環境の確立を入れることは、そうは多くはないだろう。
 またアイデアもすごい、昭和29年9月3日、近畿地方をジェーン台風が襲った。多くの河川が氾濫、田畑は土砂で覆われ、山肌が赤くなっている。
ところが、稲は折れもせず稲穂を揺らし、竹藪の竹もたわみすらみせていない。
そこから、中空のパイプを使った家を思いつき、これがDハウス工業の起爆材となり、発展の礎となったのである。
 運もいい、知人がパイプハウス組み立ての実用新案登録の話しを持ってきた。昭和31年木材資源に関して「木材合理化代替」策が閣議決定されている。
 そうして開発したパイプハウスを、まず当時の国鉄に売ることに成功したのである。
その頃の建築といえば、大工さんに頼むのが普通であったと思うが、これを工場で一貫生産することで、コストと品質に挑戦された。
 企業理念、素材への着眼、販売先の大胆なる選択、製造方法と、こうして見るとI氏という人はただの中小企業の親父ではなかった。
 まあ大方の企業家は少し成功を収めると、女に狂い、酒に狂って身を滅ぼすのが世の常。I氏は大企業を創るべく生まれ付いたのであろう。
 I氏が好んで揮毫した言葉は「志在千里」であった。

老いたる驥の書Xに伏すも、
志は千里に在り
烈き士は暮老いぬれど
壮んなる心は已まず

 死に臨み、自らの葬式を指示して、社葬を禁じたという。少しでも社業が疎かになることを嫌った。この詩のとおりに人生を全うさせたのだ。

優れた理念を残し、運と才能にも恵まれ、事業を大成させた男は、熱き想いの持ち主でもあった。この熱さこそがI氏の原点であったのだろう。この熱さがDハウス工業の理念を創り、運を引き寄せ、事業を社会に冠たるものに仕上げたのである。
 想像だが、I氏は横にいるだけで場の空気が震えるような気迫の持ち主であった。
こういう人物を長に戴けば、周りはそれこそ粉骨砕身、緊張の連続、毎日が身の縮むような思いで仕えた人も多かったことであろうが、意気に感じて楽しくもあっただろう。
 ついでに、もう一つ私の想像を書けば、I氏は将来を見都通すことができる天眼通のようなものをお持ちだったのだろうと思う。天才といってもいいのかも知れない。
私の知り合いにも、昆虫画を描かしたら天才的な男がいる。Aさんとしよう。Aさんは40歳半ばである。私はAさんの昆虫画しか見ていないが、多分昆虫に限らず何を描かしても上手いはずである。Aさんは最近まで、こうした才能は誰にでもあると思っていたそうであるから、天才とはこうしたものなのかも知れない。
 私が、このI氏を意識したのは、高野山においてである。I氏はシベリア抑留の体験者でいらっしゃる。その高野山奥の院の入り口を入ってすぐの右横に、I氏が中心になって建立された戦友の慰霊碑がある。
慰霊碑が建立され、初の慰霊祭のとき、そのまわりを雲だか霧だかか漂ったそうである。
シベリアで非業の死を遂げた多くの霊がI氏に応えたのであろうか。
 I氏はまた愛情と義理に厚い人でもあった。
企業理念は、掲げて内外に発信し、同時に死守すべきものであるが、深いところでは、風雪に耐えて燦然と耀き、人に対しては愛情を要求するものなのである。
 少しでも、見習えたらと思う。

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