大阪と東京

「そもそも大阪の地たる、品物の富、運輸の使、四通八達、もとより関西の要衝に当たるといえども、これ事業を作興するの地にして、人材を教育するの域の非ざるなり」
この言葉は「舎蜜局(せいみきょく)」という大阪で創立された学校が、京都府の強い誘致策で移転したおり、明治22年、京都での開校式で校長が演説したものです。
この学校は日本における理化学の本格的教育機関をめざして設立されたものでありました。裏を返せば、大阪に強い残留要望がなかったということです。 
慶応4年正月6日の夜、鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は、少数の者とともに大阪城を脱出します。大阪城の警護にあたっていたのは和歌山藩をはじめとした、徳川方でしたが、警護の任が解かれたため、7日には城門から撤退をしてしまいました。
 無政府状態になった大阪市中は、火事場泥棒的な暴徒が続出し、大阪城中に乱入して、あらゆるものを略雑、城内だけでなく市中の富裕な商家も襲われることとなりました。
 嘉永11年(1634)三代将軍家光は上洛をします。当時、大坂の商人は不景気に悩んでおり、大坂町奉行所に、固定資産税(地子)の免除を願い出ます。
家光はこれを受けて、固定資産税の永代免除を約束しました。商人たちは、これを大いに歓迎しました。
 その後、大坂の商人は、幕府の御用金(幕府の強制的強要にによる借入金の納付)に悩むことになります。大坂を商都と位置づけ「儲かりまっか」の世界に誘導したのは、徳川政権の意図的な戦略であったと思います。そうして士農工商の社会秩序のなかで、商人を武士よりも下位におきました。
 「大阪はゴチャゴチャしているのが良いところなのだから、その特徴を売りものにすべきだ」という言い方は、一段と高い立場から、珍しいものを喜んで慰みものにするという、かっての植民地主義に似たところがある。
 歴史を辿れば日本国家の黎明期が大和と河内を舞台に展開されております。
 また大坂は享保9年(1724)に富裕商人が費用を出しあって「懐徳堂」という学問所が開設されております。また石田梅岩の「心学塾」、幕末には緒方洪庵により「適塾」が開かれるなど学術都市としての伝統もあります。
 以上は堀井良殷という方が書かれた「なにわ大坂興亡記(2007年4月発行」日本文学間)という本の部分をほんの少し抜書きしたものです。最後は関西州政府の樹立を、ということで結び、関西の復権を望んでいらっしゃいます。
 現在の大阪は、東京と比べると完全な地方都市になったような印象しかありません。結局、徳川幕府が大阪を「儲かりまっか」だけの都市にしてしまつた。ということなのでしょうか。平成7年、神戸で地震が発生しました。このときは若干の火事場泥棒が出ましたが、あまり表立ったものではなく、静謐のうちに復興を果たしました。あれが大阪であったらどうだったでしょうか。上記の固定資産税免除の話など、中国の故事「朝三暮四」を思い出させます。
しかし現在の世界を俯瞰しますに、この大阪を日本に置き換え、日本をアメリカに置き換えると、徳川幕府が大坂に対して取った戦略は、アメリカが日本に取った戦略と全く瓜二つという感があります。大阪の復権は大変です。いやに日本の復権も大変です。
再度書きます、以上は堀井良殷という方が書かれた「なにわ大坂興亡記(2007年4月発行」日本文学間)という本の部分をほんの少し抜書きしたものです。
 興味のある方は本屋さんか、アマゾンでお買い求め下さい。なおこの本の紹介者はM&Uスクールの梅谷忠洋学長です。

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