やい、社長!!(NO3)

税理士道19.6.2(土)
 税理士道とは何か。税理士は税務の専門家であり、会計の専門家であるが、その専門性を十分に発揮するには、その根底に「信」がなければならない。目的としての専門性が正しく継続して発揮されることで、「信」は維持される。
幸い、中小企業の経営者の皆さんは、相談相手として税理士を挙げることが多いようである。
税理士制度ができたのは、戦後間もなくのことであるが、その先輩諸氏の税理士が営々と良いイメージを経営者の皆様方に与えて「信」を築いて下さった結果である。感謝しなければならない。
 税理士道とは、関与先の意を汲んで税務・会計の分野でこれを追及・研究をし、関与先に対して細心の注意力を持ってその面倒を見つつリスク回避を計り、関与先に行き過ぎがあるときは身を捨てて助言をすることである。と言えばカッコウがいい、が、実はそうなのである。しかしまた、そうはいかないのである。なぜかといえば、まず私のほうに信念がない。昔風にいえば、私に胆がない、胆力がない。情けないがそうなのである。
 なぜそうなるか、先ず税務・会計の個々の事案に対する判断に100%の確実性がないということ、従って謙虚ならざるを得ないとうことである。業務には相対的、場当たり的要素が必ず付きまとう。税務・会計はいくら研究しても研究しても、神様でない故の判断の誤謬が発生する。
 例えば、つい先ほど書かしてもらった税務調査時に問題となった貸倒れ損失の話であるが、あれは調査官の指導に従い、諸般の事情から修正申告に応じた、が、修正申告を出して10日も立たぬうちに、問題相手の弁護士からそこが破産したとの通知を受け取ったのである。もし調査時点でこの通知が手に入っていたら局面は大きく変わっていたであろう。
 あるいは、当局の判断と争う姿勢を見せて、問題を先送りしていたなら、修正申告の慫慂には応じていなかったはずである。
調査の時点で、社長と調査官を前にして、私は修正申告には応じられないかも知れないとの発言もしている。結果からみればそう言うべきだった。
 これなどは関与先の意を汲んで研究をし、リスク回避のため決算期末で貸倒れ処理したところ、不幸にも調査があり、関与先側が雀の涙ほどの債権回収をしていたことがあざとなったのである。
 では次に身を捨てて助言できるか、という話である。税理士という職業、社会一般の目にはどのように映っているかは知らぬが、私が尊敬する飯塚毅先生は、その著書の中で、自らを「十字街頭で餌を拾うような生活をしている」とお書きになっていらっしゃる。
 この発言は仏教研究の大家中村元先生との対談の中でのことで、多分に謙遜もおありになったことであろうが、私はこの表現が好きなのである。
 他の税理士さんのことは知らぬが、私に限れば確かに十字街頭で餌を拾うような生活である。すなわち強く意見具申する勇気がない。アリテイに表現すれば言い過ぎて、切られては困るということである。
もう一つは私が、助言は聴いて貰えないとの判断を下したときで、相手側に問題があるケースである。これにも二つある。一つは相手の背景を推察したとき私の意見は聞いてはもらえないだろう思われるケースと、相手の性格や価値基準からして理解が得られないだろうと思われるケースである。
しかし、この二つのケースの具定例は書き辛い。なぜなら事例を発表することは、名前を明かすことはないにしろ、ご本人が読めば気を悪くするに違いないからである。実は、私に勇気がない以前に、この相手側に問題があるケースというのが結構ある。
では助言するに身をすてて、しかもこれを確実に聞き届けてもらうことができるか、すなわちどうすれば、私に絶対の「信」を持ってもらえるのか、ということである。
それには人間を研究し、修業をして、一歩でも理想に近づく以外に手はない。もっと言えば私から出るオーラーが人をして平伏さすことができるかどうかということである。これを威光暗示という。しかし、かのお釈迦様でさえ話が聞いてもらえずにお釈迦さまから離れていった弟子がいた。「税理士道」を極めるのは大変である。