相続・争族

調停を含め、民事事件が増えている。
親が死に、財産は遺言どおりに家業を継いだ弟が全部相続しました。
収まらないのは嫁いだ姉。亭主とタッグを組んで、遺留分を寄こせと裁判所に訴えました。さて裁判所、生前に十分な特別受益があったでしょうといって、この訴えを却下しました。
 その理不尽さに怒った姉夫婦、親を恨み、弟を妬み、自分の運命を呪い、ハタマタ顧問弁護士までケチをつけて上級審を覚悟するのでした。
 裁判所は法律を争うところである。しかし裁判官が原告と被告のどちらの主張により耳を傾けるかは、当人の主観でしかない。
 憲法第十四条は法の下の平等を定めているが、運用をするのは人である。
知性が高くとも、学問見識があっても、人間が人間であることの限界は超えられない。どれだけ五感を鋭敏にしても、全ての情報が正しく発信されることもないし、仮に正しく発信されたとしてもその主張が相手方に正しく伝わることもない。
 仏法は、過去世、現世、来世と三世の因果でものを観る。
 過去世で間違った生き方をしたのであれば、現世で不運に見舞われ、現世で福運に恵まれれば、それは過去世に真っ当な生き方をしたからだということになるらしい。これだけなら、財産の配分が少なかったのは単なる宿命でしかない。過去世が悪かったのでしょうという話である。
しかし来世が現世次第ということになれば、財産を貰い損ねた不運は自らの過去世の悪業の結果と諦め、浄土に生まれるべく現世を正しく生きようということになる。
この世で恨み、妬みを重ねれば、来世はミミズに生まれ変わって、現世以下ということになるかも知れないが、真っ当な精進をすれば来世で天上界に生まれ変わるかも知れない。
 その上、魂は地上生命の体を借りてこの世に生まれるチョイと前、その生まれるべき親を選んでから生まれてくるという説もある。すなわちミミズを親として選ぶか、金持ちを親として選ぶかはその魂が決めるというのだ。
それなら現世で起るすべてのことは、尚更、自らの選択の結果であって、財産の分け前が少ないことなど恨む筋合いではない
この思想が世に普及すれば、民事事件の殆どは無くなるであろうナ。
だが、この考え方が世上に浸透することもまたない。お釈迦様生誕以来仏法は2,500年の伝統があるものの、争いのない世は絶えてなかった。
ノッポは宿命であるが、デブは運命的要素が強い。背を調整することはできないが、デブなら工夫次第で痩せられる。宿命と運命、人は両方の要素を併せ持つ。さて、財産が法律どおり相続できなかったのは、運命か宿命か。運命なら変えられ、宿命なら変えられない。上級審で争って結論がひっくり返れば、それもまた運命ということになる。
 煩悩は無尽にして複雑怪奇。真夏のアホな空想は留まるところを知りません。

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