炎天下の赤ちゃん

夏の盛りの時期に、時おり見かけてはおかしいなと思うものにベビーカーがある。母親自らは日傘を差し、赤ん坊といえばベビーカーに寝かされ、上は太陽と下はアスファルトの熱波でサンドイッチになっている。
もの言えぬ赤ん坊は、暑さとアスファルトの焼ける匂いと、それに頭に直接伝わる車の振動とにどんな気持ちでいるのであろうか。私が子供だった頃はベビーカーなどは普及していなかったし、このような場合、赤ん坊は母親におんぶされるか、抱かれていたものである。赤ん坊は母親の汗の匂いを嗅ぎ、心臓の鼓動を聞き、母親の歩くリズムが良い旋律となって、暑くはあっても心地はよかったであろう。私などは今でも、母親の背中であるいは胸元でその体臭をもう一度嗅いでみたいという思いがある。
同時に赤ん坊もまた母性本能をくすぐるいい匂いを持っている。あの乳臭い吐息は乳飲み子にしかないものだ。
一般的に動物の赤ちゃんというのはいい匂いを持っているもので、我が家の犬もそうであった。故に動物が他の動物の赤ん坊の面倒をみることがあるとはムツゴロウ氏の談である。
ベビーカーの母親は、哺乳瓶は赤ん坊に与えても、自らのお乳を人前で飲ませることはしないのが普通である。それに、最近の赤ん坊は紙おむつを巻いている。体形がすっきりして見え、その分赤ん坊の可愛さは半減してしまつた。可愛さが半減すれば、愛情もまたいかほどか失うことであろう。
赤ん坊が布のオシメで大きくお尻を膨らまし、固まらぬ体に満身の力を込めて真っ赤になって大声で泣き、あるいはガチョウよろしくよちよち歩いている図は捨てたものではない。
利便性、快適性の追求が親と子の距離を置くこととなり、相互不信に陥るのである。昨今の親殺し子殺しはその辺りに根があるのではないか。確証があるわけではないがそう思う。
 最後に野上弥生子作詞の文部省唱歌で締めよう。母親のあるべき姿をさりげなく学校で習った時代があったのである。これを口ずさめば少年であれば母親を尊敬し、少女であれば将来母親になることの自覚を持つことであろう。

「母の歌」
母こそは 命のいずみ
 いとし子を、胸に抱きて
 ほほ笑めり 若やかに
 うるわしきかな 母の姿

 母こそは 千年の光
 人の世の あらんかぎり
 地にはゆる 天つ日なり
 大いなるかな 母の姿

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