人が生きる目的とは
人は無目的である。同時に内にあるイリュージョンを掻き立て掻き立てしながら生きて行くのである。
小学校2年生のときのことですが、クラスの友人のお父さんが事故で亡くなったことがありました。
お葬式には、クラス全員で出席しました。その友人のお父さんは、今から思うと30歳半ばだったのでしょうか。話こそしたことはありませんでしたが、お顔はよく存じていました。
私の田舎は、当時はまだ土葬で、野辺の送りは座棺でした。棺の中に座ったまま入れられ、墓地に埋められるのです。
墓地は穴が1.5米四方に掘られて、そこに埋葬されます。そのとき、人が死ぬことで終わることを、つくづく悟ったのでした。
私はそれを見て、学校で勉強することの意味のなさを知ったのです。
「人はやがて死ぬ、死ぬ人間が勉強することなど意味が無い」と考えたのでした。若干、小学校2年生でこの決意をしたのですから、自分でも大したものだと思います。
幸い田舎のことですから、誰からも勉強は強制されません。
そんなことですから、毎日毎日遊び呆けていました。川ではハヤを釣り、鮎と鰻を追いかけ、谷ではコサメ(あまごのこと)釣り、山では小屋を作り、四季折々に、アケビやヤマモモを採る、といった塩梅です。
その他うさぎの罠を仕掛け、めじろもよく捕りました。
実はこの5月連休の3日と4日を利用して、子供の頃遊んだ、谷に久しぶりであまごを釣りに参ります。山道を入って1時間も歩くと、滝があるのです。
そこまで行くつもりですが、果たして道はあるのでしょうか。それが心配です。
これも小学校高学年の頃でしたが、その日も遊び呆けて一日を過ごし、縁側で寝てしまったことがありました。縁側で寝てしまうくらいですから、気候は晩春からから初秋にかけての頃のことだったのでしょう。
ふと気がつくと天上に満月が輝いていたのです。それこそ雲一つない状態で、月は辺りを煌々と照らしていました。その月が私の心に飛び込んできたのです。
月が煌々と照る、という表現は街では実感できません。灯が邪魔をして天上の月を愛でるような雰囲気は都会にはありません。
その時は寝起きで、ある意味心が整理され、邪念がなかったのでしょうか、月が私の心に一直線で飛び込んで来たのです。あるいは私が月に吸い込まれたと言えばいのでしょうか。それは不思議な体験でした。そこで人はいつ死んでもいいのだ、というような感慨を持ってしまったのです。同時に命が永遠であることの確信でもあったように思います。
もう一つの不思議な体験は、夏休みに宿題の絵を描いていたときのことです。
それはカンカン照りの暑い昼下がりでしたが、田んぼの畦道に座り、山を描いていたところ、いつしか暑さを感じなくなり、ふと気がつくと山と私が一体化していました。それは一瞬にできごとでしたが、確かに私が山になっていたのです。彼我の観念のない、また時間概念のない世界があったのです。
昔、ホーキング博士の宇宙論を読んでいたときですが、そこには宇宙は年5%程度の成長(あついは「膨張」であったかは忘れました)をする、というようなことが書かれてあったと記憶しています。
それを読んで「そうか、人も年5%程度成長するのが巡航速度なんだな」と思ったことがあります。しかし人の何を成長させるのか、ということは、余程考える必要があります。
話は飛びますが、そうした観点からすれば日銀が年1%をインフレ目標にしたもの間違いです。本当は経済など成長しないのが理想的なのかも知れません。
世界も日本も亡者だらけですから、その結果何が何でも成長しなければならない、と考えているのでしょう。
本当は我々に課された使命というのは、成長を止めた、その逼塞した経済状態に耐えることなのかも知れません。そこで人生を謳歌できるか、ということです。まあ現在のように、複雑怪奇な経済事象での生活に慣れた我々にはできない相談ということになります。
ところで単に人生を無目的としてしまえば、生きることは適いません。それこそ自死でもしないことには納まりがつかなくなります。
親鸞聖人は歎異抄の中で、唯円坊の質問を受けて、宿縁があってこの世に生まれたのだから、浄土に還りたいと思わないのは致し方のないことだ、というようなことを述べた箇所があったと記憶しています。
浄土真宗では南無阿弥陀仏と唱えればで浄土往生する、というのは通り一遍の理解で、それなら浄土に橋渡しをする坊さん(いわゆる善知識)はいらないことになります。
この辺りは掘り下げていくととても面白いところなのですが、いずれにせよ、親鸞聖人も、この世で生きることにそれほどの重きは置いていないのだろうと思います。
ただ六道界を輪廻転生する中で、今が人であるということは大事なポイントです。問題は、人生を無目的と捉えた上で、なお積極的に肯定できるか、ということです。
「遊びせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さえこそ動がるれ」。
梁塵秘抄の一節ですが、この歌は奇妙な響きを持って私に迫ってきます。
生きるとは果たして何ぞや、そしてその目的は・・・・そろそろ答を出さなければいけない歳になっています。でも未だしですね。