パラダイム・シフト期における経営者の心構え
NPO法人関西事業再生支援センター
理事(税理士)倉矢 勇
その1 リーダーの不在
中小企業金融円滑化法は、平成21年11月に施行され、平成23年3月末の、実行件数は、159万件、金額して44兆円となりました。
金融機関は44兆円の大半を、そのまま回収不可能債権として認識していると推測しなければなりません。東日本大震災は平成23年3月11日に起きました。それに伴い今年の4月以降において、この実行件数、金額は大幅に伸びていると推測することができます。
平成22年度の一般会計の税収は41兆円です。それと比較しても、44兆円というのはとてつもなく大きな数字です。また東日本大震災は日本が抱える問題を炙りだしたようです。
日本の国家としての危機は、幾多となくありましたが大きくは明治維新の頃、太平洋戦争で負けたとき、それから今回の震災ということになるのでしょうか。明治維新も太平洋戦争での敗因も、ともに海外列強とのせめぎ合いの結果です。しかし今回の危機の本質は、国家のリーダー不在ということです。
鳩山元首相や、菅首相の政治手法が、問題にされていますが、リーダー不在は政界だけの話ではなく、家庭も含め、日本のあらゆる組織で起きている現象であろうと思います。東日本大震災はそれを顕在化させ、認識させる触媒の働きをしただけではないでしょうか。
他方、この震災は我慢強く、強調的であるという日本人の特性を改めて認識させる結果となりました。戦後日本の経済力のピークは平成2年ごろではなかったかと思います。それから低迷期が続き、10数年を経てその後持ち直していた景気の回復も、リーマン・ショックで再び大きく落ち込み、更に今回の震災がそれに輪を掛けました。
事業再生においても、これまでのように、それが金融問題に起因するものであり、事業内容をグッドとバッドに分けて、金融面からグッドだけを切り出す、という安易な手法のみでは、立ち行かなくなったように思います。
その2 事業再生も今や金融問題ではない
事業再生というのは、リーマン・ショックが起きるまでは、金融問題でした。ファンドが多く設立され、融資は必ずしも銀行に頼る必要はなくなり、金利が多少は高くても、ファンドからの積極的で且つイージーな融資形態が金融市場を活発化させていたのです。
例えば不動産投資にしても、ノンリコースといって、借り手は債務全額の返済責任を負わず、責任財産から上がるキャッシュフローのみを返済原資とし、またその範囲を超えて返済をする必要はなく、しかも原則として保証人を必要としない、という夢のような融資形態が流行していたのです。
事業再生の勉強会に出席しましても、そうした融資をしている外資系の金融機関が、不動産への融資案件があれば是非紹介して下さいと、その勉強会の後の懇親会にまで出席しきて、商品説明をしていたものでした。ところがアメリカのサブプライム住宅ローンに端を発したリーマン・ブラザーズの破綻はリーマン・ショックとして世界中に影響を及ぼし、多くのファンドがその規模の縮小を余儀なくされ、または倒産に追い込まれました。それにつれて、景気もつるべ落としとなったのです。ところが東日本大震災が起きるまでは、徐々にですが景気は落ち着きを取り戻し、良くなりかけていました。
しかしそれらは、皮相的な現象であって、本質な回復ではなかった。つまり、パラダイム・シフトが起ころうとしているのに、相変わらず従来の手法や価値体系での再生を夢見ていたということです。
そもそも国家の力というのは経済力のみに置くものではないし、またよく言われることですが、国家統治における強力な官僚機構も今や有害化しているように思います。もっと次元の異なる、日本人の礼節や道徳に立脚して、そこから日常生活はもとより、経済や商業も考えていかねばならないのではないか、ということを、今回の震災を期に改めて思い知らされたように思います。
その3 経営者は人間の本性を研究しなければならない
税理士が、事業再生について書くなら、財務の改善であり、金融問題であり、あるいは、会社分割などの法的手法を用いたものであり、というのが従来のものでした。
しかしそれでは、表面をなぞることはできても、根本から治癒することはできません。また経営がおかしくなったのは、社会の状況が変わったという見方もあろうと思います。小泉純一元首相と竹中平蔵コンビは、金融のあり方を、根本的に変えたため,それについていけない企業が続出したのも事実です。しかし、それでも破綻をさせずに立派にやっている企業もあります。これは経営者や企業の業態の運もあるのでしょうが、それだけでは説明がつかないのです。逆に弁護士や税理士が入って支援し、会社分割などで再生したにも関わらず、再び経営難に陥る会社がある。
再生できる環境が十分に整ったはずなのに、再び低迷をしてしまうのです。それは経営者の経営の力量がなく、反省がないからで、再び経営権を握るとまた同じ過ちを犯すのです。
再生をしょうとする会社は、過去には隆盛を極めた時期がありますから、経営者はどうしてもその時の印象が残っていて、その手法で以って再生をしようと思うらしいのです。その間の時代の変化や、昔経営がうまくいったのは、たまたま時の運もあったからだ、ということに気がつかない。
また過去の方法を踏襲するのが楽、ということもあるのでしょう。事業を再生する場合、経営者は時代の変化を考慮し、経営感を練り直して、事に当らねばなりません。その為には、経営者は勉強をしなければならないのです。
勉強というのは経営手法も然ることながら、人間通になることです。結局経営というのは、人の上に立つことである。人は情で動くものであり、その情動というもの徹底して学ぶ必要があるのです。それによって経営者が持つ経営力の差が出て参ります。
その4 経営環境の整備ということ
事業を再生するというのは、その事業のコンセプトを環境問題も含め、根底的に考えるということでもあります。他方においては制度設計に目を向けないわけには参りません。
例えば労働時間にしても、週42時間という縛りがありますが、これは短すぎます。これだと雇用する側は、一人当たりの生産性をぎりぎりのところまで、上げなければいけません。しかし労働時間がタイトになると、従業員同士の交流がなくなり、技術の承継もスムースに出来ないし、合理性を追求すれば人間の側に十分な技術の蓄積ができません。
まず何よりも働く喜びがありません。法人税や社会保険料が高額なのも問題です。今、法人税を下げよ、という圧力が経済界の方からかかっていますが、当然です。また消費税も、基本的な計算構造は殆んど法人税と一緒です。昨今、小売業が大手企業で寡占化された状況下にあります。
消費税率を上げれば、そのシワ寄せは製造業、とりわけ中小メーカーを直撃し、生産基地は海外へと移転しますから、国内での失業が増えます。この消費税問題は昨年、このコーナーで書きましたので、今回は割愛します。
地方自治が言われておりますが、それなら、産業における大手資本の地域参入を避ける方向で制度設計しなければなりません。今やコンビニエンスストアーは全国を席巻しています。コンビニ商品は地域から供給されず、お金は東京に流れるシステムで、産業としての地域貢献度は零に近いものがあります。
東日本大震災の復興にしても、国が口を出さず、お金だけ出して後は地域に任せたほうが資金も効率的に回り、余程うまくいくのではないでしょうか。
美濃加茂市は陶器産業が盛んで、生産から販売までを地域で廻しお金を地域で流通させています。湯布院も地域が潤う相互扶助の観光事業を展開しています。国としては産業構造を地域での横の連携に持っていくような、設計をすべきだろうと思います。
その5 人の根底にある欲求
私が簿記の勉強を始めた40年以上も前の簿記教科書には、企業は営利を追求するものである、と書かれていました。初めてこの言葉に接したとき、違和感があったのは事実です。
しかしその違和感が何であるかについては、そのときは考えませんでした。また考えたとしましても、それは当時の時代の流れであり、その勢いの中で辛うじて身を支えている私にしましては、なす術はありませんでした。ただその違和感は今も持ち続けています。
1980年代になって、市場機能を充実させれば、需給と価格が自動的に調整され、経済活動は合理的に行われるという市場経済主義が、台頭して参りました。これは現在も続いているわけですが、これは弱肉強食を助長しこそすれ、決していい結果を生まないように思います。
経済が市場で自動的に調整される、というのは機能として優れたものであっても、供給する側は、安く買い叩かれ、経営の維持が脅かされることに直結します。一部の勝者を除き、多くは豊かな生活を失い、思いやりや愛情についての思考さえ奪い、衣食不足して礼節も失うという結果となります。
人の根底にある欲求というのは「幸せ」ということです。規模の大小を問わず経営に携わる人は、この人の「幸せ」というところから発想し、自らはその影響力を正しく知って、企業はどうあるべきかを、強く問わねばならないのです。それなくして、経営の意味はないように思います。私なども、これまでの行き方が立派であったのか、と問われれば、頭を掻いて俯くしかありませんが、今更過去を問われても過ぎ去ったものはどうしょうもありません。この連載を事業再生に関連付けて書いております。
これをお読み下さる方は、経営者の方もいらっしゃるでしょうが、例えば政治家を観察していてなるほど、これは反面教師だな、トップに立つ人間はこのようなことはしてはいけないな、と感じることは多々あります。
その6 政治家のトンチンカンは他山の石(1)
政治家を取り上げるのは、これをお読み頂く経営者の皆様方にとりましても、共通の課題として格好の素材であるからで、徒に個々の政治家を悪しざまに評論して、溜飲を下げる、というようなことではありません。
最近も、松下龍元復興対策担当相が就任後9日で失言が仇となって、辞任致しました。松下龍氏は宮城県の村井嘉浩知事を前にして、その表情も硬く、横柄で乱暴な言葉を遣いました。政治家は言葉が命です。
いったいこれまでこの人は国の中枢にあって、しかも多くの人と接する政治の世界に身を置きながら、どのようにして、生きてきたのでしょう。
しかしこの松本龍氏を見ていて、これは私ではないか知らん、と考えるぐらいの感覚は必要です。人の不祥事は面白いものです。それを端からこれは自分のことではない、と思ってしまって、自らの身に置き換えて観察するということを忘れてしまうのが普通です。
経営者も言葉が命です。それは行動を伴うものでなければなりません。「子供笑うな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ」。日本にはこのように面白い格言があるわけですが、それは人の悲しみでもあるのです。
自らの生き様を考える上で、人様の日常を我の上において観察し、身を正すということをしなければなりません。また松本龍氏の言葉使いからして村井知事との間には、積もる遺恨があったのかな、とも思わせるのですが、国民は、松下龍氏が応接に座った、あの場面から2人を観察しています。TVにどう映るか、そこに思いが至らなかったとしたら、ただのアホです。
これで松下龍氏は、60年かかって築いてきた信用を一朝にして失ったのです。信頼信用を失うのは、簡単なことです。経営というのは信用と信頼をどのように築くかということに尽きるわけで、真剣に考えねばならないことです。
その7 政治家のトンチンカンは他山の石(2)
もう一つ、これはやってはいけないな、と思わせる例を挙げます。鳩山由紀夫元首相は現首相の菅直人氏を「ペテン師」と呼びました。鳩山前首相も「ハト」ではなく「サギ」ではないか、と云われたことがあります。鳩山前首相のこうした厚顔も他山の石として珍重しなければなりません、が、それよりも、問題は同じ政党であり、しかもその前首相が、現首相をマスコミの前で「ペテン師」呼ばわりしたということです。
どこの組織でもそうですが、部下が飲み屋で上司の悪口をいう、というのはよくある構図です。しかし組織の会長がその組織の社長の悪口を、業界の会合でマイクを借りて喋ったとしたらどうか。その組織は瞬時に世間から信用を失います。問題は鳩山前首相にそのような感覚が皆無だということです。
あの言葉で、民主党は勿論として、日本も世界から信頼信用を失ったのではないでしょうか。本来なら社長が「ペテン師」であることが分かったなら、それは組織としては秘匿しなければなりません。
こうした不祥事は政治の世界だけのことと思うのは間違いです。政治家を選んだのは国民です。我々自身が鳩山前首相や、前回に書きました松本龍元復興相と大差がないと思って差支えがないのです。つまり我々自身が鳩山前首相であり、松本龍氏である可能性が高いということです。震災直後において、被災者はお互いを慮って秩序正しく行動し、その態度は海外からの称賛を得ました。
日本人ならそれは当然のこととしても、国や企業のトップというのは、言葉や態度には細心の注意を払い、その自らの一挙手一投足に注意を払う必要があります。会社や従業員を外部で批判するというのは、決してやってはいけないことです。鳩山元首相はルーピーと揶揄されました。むべなるかな、と思います。
その8 政治家のトンチンカンは他山の石(3)
更に政治の世界から、リーダーがとってはいけない悪い例を挙げます。それは小沢一郎氏の献金疑惑に絡むものです。この献金疑惑問題がどのような決着を見るか、ということではなく、こうした疑惑が日本を代表する政治家の周辺で起きた、ということと、「陸山会」という権利能力のない社団を利用して不動産を買ったことにした、という不正直さは許しがたいと思います。
どのように言い訳をし、嫌疑不十分であったとしても、小沢一郎氏がこれに深く関与しているであろうことは明白です。企業でもそうですが、そのトップ自らが指示し、あるいは率先して不正で得た金銭を隠匿しているというように見える、というのは大いに問題があります。
組織を守るためには、組織内部から不正を出さないようにする、ということが組織を預かるトップの大きな責任です。そのためにはトップ自らが身を正し、範を垂れることが大事なのです。従業員が金銭的不祥事を起こして、トップがそれを叱れないとき、というのは、実はトップも同じことをやっている、あるいは過去にやった可能性が高いものなのです。
トップが金銭に廉潔であるというのは、組織運営の鉄則です。私は、企業経営においても、金銭を預かる人というのは、社長は勿論社長夫人やその子供でも駄目であると考えています。それは「李下に冠を正さず」ということです。経営者は金銭管理については、妻に任すのが安全・安心と考え勝ちですが、従業員はそうは見ません。仮に妻が正しい帳簿をつけていたとしても、妻に会計を預けているということそれ自体が問題なのです。
勿論企業にも段階があります。「父ちゃん社長、母ちゃん専務」というような会社なら、このようなことは申しません。政治家は企業経営者の反面教師としは、格好の材料です。
その9 経営はバランス
ドイツにはマイスター制度というのがありました。現在ではほとんどの職種でマイスター制度は廃止されているそうですが、これは一考に価する制度です。まず専門知識や技術を習得し、熟練工の試験を受け、さらに3年から5年の技術の研修を積んで、マイスター試験を受けるのです。
それは技能試験だけではなく、周辺の法律知識なども試される試験であったようです。私の事務所の近くでも、飲食業の開店などはよく見られますが、廃業も多いのです。それは、市場調査や資金の検討などもなしで、無定見に思いついたまま、開業をするからであろうと推察しています。
勿論開業の当事者は、資金の検討や立地条件は考えているのでしょうが、しかしそれはどうして儲けたろかという多分に底の浅いレベルのものでしかない。最近は開業時には公的金融機関からの融資も比較的簡単に仰ぐことができます。ここにも問題があります。経営手腕を問うことなく、通り一遍の形式審査のみで、公的資金の融資が受けられるのです。
それにある某機関の担当職員は、公的融資を斡旋し、手続きの代行をするに当って、この融資は一旦受けてしまえば、返さなくていい、といったそうです。政治家を志す、あるいは経営者になろうとするなら、まずその動機が問われねばなりません。その動機が単に権力志向やお金儲けのみであってはならないのです。
福島原発の問題にしても、原発というのは結局、政治家と電力会社と地元の利権の問題が複雑に絡んだ問題であることが、報道の中で露見したように思います。まあ人が生きるというのは、少なからず利害関係の調整が余技なくされるものですが、政治も企業も、世の中を善くするという理念が根底になければなりません。
津波事故から東京電力を観察する限り、そうした理念は感じません。この世はカオスであり玉石混交ですが、リーダーの選任には透明なルールが必要であるように感じます。
その10 権力は人を鈍感にし、絶対権力は羞恥心を奪う
企業経営を永続して、世の役に立たせるには経営者の人間に対する深い洞察力と、愛情が欠かせません。つまり人間理解の深さが必要なのです。
まず人は物ではありません。こう書くと「なんやそんなこと、云われんでも知ってるわい」ということになるのでしょうが、ここが難しいところで、本当は大方、分かってはないのです。
経営者というのは殊更人間に通じていることが必要です。私もこれを書きながら、自分は果たして大丈夫なのだろうかと思っています。これが国政を担う政治家となると、権力が絶大である故、国家国民のことなど更に分からなくなるのです。先に上げた松本龍元復興相、鳩山由紀夫前首相それに小沢一郎氏など、加えて菅直人首相などは、その典型だろうと思います。
人というのは本来理解ができないものです。と云うことは、自分も人ですから、自分も分からないのです。あるいは分かっていたとしても自らの厚顔、横柄は許されると思っています。経営者も権力者ですから同じです。ここに人の行為行動を我(わが)こととして、よく観察する必要が出て参ります。
何も殊更古典を勉強して、人間理解を深める必要もない。目の前の人を自分のこととして、深く観察して滋養にすればよいのです。また更に難しいのは人を観るとき、勝手な先入観でもってその人を裁いてしまう、ということです。私などは長年の性癖もあって、どうしても彼我対立の概念で人を観てしまうところがありますが、間違っています。
人の日常を我を観るがごとく、己の鏡として人を観る、ということです。自分の失敗や間違いというのは、自らは簡単に許してしまうものですが、そうであれば人の失敗や間違いも許さねばなりません。
しかし組織運営においての失敗は、それが自己であれ、従業員であれ厳しく処断せねばなりません。自己を処断するのが困るのであれば、経営者はまず自らを厳しく律しなければならないのです。経営者の自己愛は見苦しいものです。
私もこれを書きながら、反省しています。
その11 釈迦の「八正道」は経営にも役立つ
仏教の教えに八正道があります。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定がこの八正道です。これはよく出来ています。先ず正見(観察)が最初に来ています。正見というのは、よく観察する、ということです。
前回書きましたが、他人をよく観察する。それは他人を観察することではなく、他人を通じて自己を観察することだ、という風に書きました。経営の基本というのは結局ここに尽きるのではないか、ということです。
つまり他人を通じて自己を観察し、その延長として他人を観察して、人の情動を探り、従業員を動かすのが経営だ、ということです。また正見というのは、人だけには限りません。扱う商材、組織のあり方、世の動きなど、凡そ経営に関するものすべてが観察対象です。
経営者が忙しい、というのは自慢にはなりません。バタバタ貧乏とはよく言ったものです。本当に儲かっている会社というのは、社長が落ち着いていて静かなものです。人間観察が、人間の本能にまで深く根ざしたものであり、情動の原理原則、精神の岩盤にまで、届いたものであれば、自ずから正しい思考(正思惟)が生まれます。
観察が行き届き、正思惟ができれば、それが間違いのない言葉(正語)となってリーダーの働きができます。しかしこれはとても難しいことなのです。「群盲像を撫ぜる」という諺があります。これは目が見えないから像を理解するために触ってみた、ところが触ったところから考えても像の全体像は解らない、ということです。では目が見えていたなら、像は理解できますか、ということですが、果たしてどうでしょう。
全体は見えても、それだけでは餌の好みや、性格まで理解したことにはなりません。つまり正見というのは、見る側の器量の問題でもあります。その器量といのは人間の限界でもあります。人の眼耳鼻舌身は鈍感に出来ています。従って経営者は他者の助言を入れる必要があり、よき助言者を持たねばなりません。
その12 微に入り細を穿って詳細に観察しょう
前回、仏法の八正道について述べました。それは経営者の経営スタンスとして一考に価すると思うからです。それには多面的な観察(正見)から入り、観察結果から何が不足か、どこをどうすべきかを考え(正思惟)、それを言葉(正語)にして知らしめる。そうすれば誰が何をやるべきか(正業)が分かることになる。
各担当者には自分の責務(正命)を果たしてもらう。当初は試行錯誤もするだろうが、そのうちに各人の念(正念)が定まって、各個の協力を得て経営は安定(正定)する。これは仏法でいう八正道の置き換えです。
正見に始まって正思惟から正語にまで至れば、企業経営の80%は先が明るくなるだろうと思います。また先には、制度設計を考えることも必要だと書きました。これは国や地方公共団体を巻き込み、多くの人や組織と合議して意見を交換し、合意を形成しなければなりません。
しかし仮に合議をしたとしても、いい方向が見出せるものでもないのです。船頭多くして船山に登るということにもなりかねない。ここのところは経営者個人では如何ともし難いところですから、自らの立場で直ちに始めることは不可能です。
平たくいうと、原因を社会や政治にもとめず、まず自らの立ち位置で、できることから始めるということです。それは自己の思想を変えるところから始めねばならないのです。八正道において、正見は最初に来ます。
しかしそれは同時に後の7つ(正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)の基底にくるものでもあり、正見でもってこの7つを見張らねばなりません。この正しく見るということですが、簡単ではありません。
まず偏見を取り除き、一切の先入観を捨てて、その事業に取り組む自らの動機、事業の社会的有用性や将来性など、凡そ考えられる全てを見極める必要がある。なぜこのようなことをしっかり考えるのかと云いますと、基底が狂っていると、どこかで必ず齟齬がくるからです。
その13 正しい観察は5S活動から
正見ということについて、もう少し具体的に書きます。これは言葉を変えれば緻密な観察ということです。5S活動(整理、整頓、清掃、清潔、躾)は、熱心に経営に取り込まれていらっしゃるなら、当たり前のことです。
ところが、5S活動は、これがなかなかできないのです。分かり安いところで、製品在庫を例にとります。まずその企業において、製品はどのような意味を持つかを考えねばなりません。下請けなら、受注生産が基本ですから、本来製品在庫は、あってはならないのです。製品在庫があること自体が不自然なのです。
それでもコンスタントに受注がある製品なら、ある程度は作り溜めをしておかねばならない、ということもあろうかと思います。ところが、それが捌けなければ、その在庫分が丸々損失となります。
また100個の注文がきたとして、その製品に不良があっては問題ということで、余分に10個を作ったとします。すると利益率は極端に言えば10%下がったことになります。またその製品を入れるダンボールの通い函なども、他の製品を入れるものとの共通性を持たせればいいのに、製品ごとに作っているケースも見受けられます。
利益が出せない会社というのは、ベテランは人件費が高いからといって、アルバイトや派遣で製造に当たらして場合もある。すると頻繁に不良品を作ってしまい、その作り直し、手直し、それに取引先からのクレームで信頼を失うことにもなります。緻密な観察というのは、そのような問題点を紙に書き出し、それを整理整頓して、業務の流れを検討することでもあります。
それはまた社員の躾にまで、話が及ぶことになります。税理士としていいますと、原始帳票書類の秩序然とした整理や、タイムリーで明朗に会計帳簿を付けることも、この5S活動の一環なのです。
整理整頓から正見が始まるのです。これは企業存続の一つの条件です。
その14 危機の徴候を見落とすな
緻密に観察をするということですが、それは徴候を見るということでもあります。我々は日頃の慣れのなかで、今日は昨日の延長であり、明日は今日の延長にあると思って、そこに安住してしまうものです。
例えば東京電力でも、地震と津波に関する問題提起は、されていたようです。2006年改定の国の原発耐震指針は、極めて稀に起こる大津波に耐えられるように、大幅な改定を求めました。
2009年には、独立行政法人「産業技術総合研究所」がその危険性を指摘しております。ところが、東京電力は地震想定の引き上げに難色を示し、設計上耐震性に余裕があるなどとして津波の想定が先送りされました(出典:国際ビジネス情報共同組合)。過去のサイクルからは、こうした地震は予測されていました。ここ数年は世界中で大きな地震が起きていますから、当然備えは必要であったのです。目先の利益の確保から、国家国民の利益を放置した東京電力の倣岸不遜は呆れるばかりです。
もし、指摘された時点で、正しい対処対策をしていれば、被害も小さく、世界中に日本の不評を撒き散らすこともありませんでした。これはたまたま東京電力という国を代表するような企業で起きたことですが、一般の中小企業でも起こりうることです。
私なども職業を通じて、相当早い時期に倒産の予兆に気がつくことがあります。それは不確実な会計帳簿として現われてくるのです。しかもそれは、多くの場合、経営の劣化として起きてくるものであり、経営の劣化というのは経営者の劣化のことですから、止められるものではありません。
なぜ止められないか、権力でもって思考省略というラクな道に入ってしまう、と云うことです。倒産というのは、ある日突然に起きる、ということは殆んどなくて、その原因に10年以上の、蓄積があるのが普通です。
その15 無定見が企業を殺す
廃業を除き、事業を失敗するケースというのは、共通点があります。それは経営者の無定見が根底にあるということです。殆んど思いついたまま、新規事業に手を染め、設備投資をやりすぎたケース、あるいは言動の拙さから従業員の信任を失い、または財務の現状が理解できないケース、経営者の使い込み等など。
使い込みも色々です。本当に湯水の如く会社の金を使ってしまい倒産に至ったというケースもありますが、姑息な遣い方をして顰蹙を買い、信頼を失ったというケースもあります。ワンマン経営者のこのような行動というのは、誰も止められるものではありません。経営者の言動の拙さは、気が付かないうちに社員が離反し、それが業績となって現われてきます。
が、当の経営者は、気がつきません。政治家の言動というのは、すぐにマスコミが叩いてくれますが、それでも当事者に改める気配が見えないということは、日々の報道で検証済みです。権力は限りなく人を鈍感にします。
また人というのは、目が外向きに付いていて、自己を見るようにはできていません。八正道は結局これを実践しょうと、思わなければ、つまり強烈に意識しなければ、役には立ちません。言葉を知ったというだけというのでは、返って始末が悪いものなのです。
そのためには、人の意見を素直に聞くようにしなければなりません。人間というのは自分の欠点はよく解らないが、人の欠点にはよく気がつくという性質を持っています。小学生でも、大人が間違っているところは判りますが、しかし経営のトップに意見をする人というのは少ないものです。
それは経営者が生死与奪の権力を持っていることと関係しています。それは経営規模の大小とは関係がありません。経営者というのは、組織の中では、一つの機能であって、権力主体とは思わないことです。虚心坦懐を心がけ、世間話の中から、自らがどのような評価を得ているかを常に観察しなければなりません。
その16 合理の経営から慈しみの経営へ
リーマン・ショック後、東日本大震災が起きるまでは、徐々に景気は落ち着きを取り戻し、良くなりかけていました。が、それらは皮相的な現象であって、本質な回復ではありませんでした。
本質というのは、慣習や人間の情動に基礎を置いた価値体系のことです。ここで慣習というのは、日本人が日本の風土において、長年培ってきた、合意のことであり、また情動というのは、人間が本能的に持っているもので心に「快」を感じて、能動的かつ積極的に行動することです。この二点がしっかりしていてこそ、人は安心しかつ快適に世の中に参加できるのです。
ところが今の組織はそうではありません。目先の効率のみを追求した結果、精神を病む人が増えました。例えばある自動車メーカーですが、工場には時計と、当日の生産予定台数に対して、進捗度を示す計器、ラインにトラブルが発生して、止まった場合、その止まった時間を示す計器が同じ場所に掲げられています。ラインでは複数の車種が流され、工員さんは生産現場でマニュアルを持って、流れてくる車種に部品を取り付けていくシステムになっているのです。
工員さんの工夫が入る余地がなく、多分働く側に何の面白さもありません。就業時間中は休む間はなく、社員同士で言葉を交わす時間もない。
チャップリンの「モダン・タイムス」を髣髴させる情景がそこにあります。銀行の窓口で働く女性は時給850円のパートでありながら、過度なCS(顧客満足度)の要求や、顧客の個人情報保護のために、神経をすり減らして、働いています。労働の提供をする側も、それにお金を払う側も、本質的には価値の等価交換ですから、一方が疲弊するというのは、やはりおかしいのです。
「お客様は神様です」といったのは、三波春夫でした。ところが役所に生活保護の手続きに行き、自らを神様と思っている輩もいます。今の世の中は、とてつもなく狂っているのです。
その17 人を物と観るな
経営に独裁は許されません。短期的には独裁が可能で効率もいいでしょうが、長期的には、それでは経営の継続は無理です。しかし、経営者というのは、ことに中小企業の場合、独走をしてしまうものです。
どうしても「人」と「物」の区別がつかなくなってしまうらしい。経営者を志す人というのは、自らを「物」扱いしているところがあります。感情を捨て、趣味を捨て、経営のことを四六時中考えていると、どうしても自らは「物」になってしまうのです。
従って自らが独裁者になったという意識はなしに、独裁になってしまうのです。しかし経営者が経営資源のすべてを握っているわけではありません。例えば営業員がその会社の製品の品質について、クレームを聞いてきたとします。
それを改善しなければいけないのですが、経営者が怖いから云えない、あるいは、統制が強すぎて、製造現場に改善の要望が上手く伝わらない、伝わったとしても、その改善には金型の変更を余儀なくされるようなケースでは、金がかかる、とうことで社長にまでその声が届かず、結局は信頼を失ってしまうケースというのはよくあるのではないでしょうか。
では独裁をやめてモチベーシュンを上げるにはどうすればいいのか、ということですが、一旦独裁的組織になってしまうと、それが、社員の脳裏に刷り込まれますから、一朝一夕には改善は致しません。
仮に社長がその過ちに気がついて、その独裁を止めようとして、うわべは飾っても、それが本心でなければ、社員はそれを信用してくれません。すると社長は切れてしまい、更なる独裁に走ってしまうことになりかねません。
そうなれば組織は全く機能しなくなるのです。下からみれば経営者の存在そのものが怖いのです。経営者は、自らが独裁者になっているということに全く気がついてないものです。命令型企業というのは、猜疑心が先に立ち、和が保てなくなり、組織の存続が危うくなります。
その18 モチベーションよりも使命感を
ところで、経営者が命令型の組織運営を止めて、従業員のモチベーションを高めることで経営能率を上げるにはどうしたらいいか、という方向に経営の舵を切ったとします。
モチベーションを高めようとすれば、勤務評定をし、インセンティブとして、給料を上げたり下げたりするようになります。あるいは、本当の話かどうか分からないような月間教養誌の記事を輪読(悪いことではないでしょうが・・・)させて、こと足れりとするようになる。というのが大体のお決まりのパターンではないでしょうか。
独裁型組織の最大の欠点は、恐怖心や反抗心から情報が上手く回らなくなり、何のために働いているのか、という使命感が抜けてしまうことなのです。昔日本の軍隊は強かった。今、日本人自らが、それを侵略戦争であったなどとの、自虐的歴史観に染まっていますが、それは違います。
侵略を目的としたなら、単なる盗賊です。それに命を懸けるようなことを人はしません。日本の軍隊が強かったのは祖国防衛と、東洋解放という明確な使命があっからこそ強かったのです。
話は逸れますが、今の若い人たちは愛国心がないなどと言われていますが、私はそれほど心配していません。もし、国土を失うような危機的状況下では、日本人は立ち上がると思います。東日本大震災後の秩序ある同朋の働きをみて、そう感じました。むしろ危機は指導者のマインドにあります。
日本の危機的状況というのは、トップが作るのです。事実、菅直人首相はその危機を作り出しています。これは中小企業のトップであっても同じことです。組織を動かすのは独裁では続きませんし、モチベーシュンを上げるというような、手法でも駄目なのです。大事なのは、その仕事がどのように社会に役立っているのかという、使命感なのです。
その19 トップは君臨するのみ
組織においてトップはどうあるべきか、ということですが、組織といって出来たばかりの組織もありますから、そうしたところでは、トップが率先垂範して、一線に立ち働かなければなりません。しかし従業員が5人を超え、それなりの歴史を経た(経験則からは創業後10年)会社では、社長は君臨するだけ、というのが正しいのです。
もっとも君臨するといっても、ただボーとしているだけでよいということではありません。トップにいる以上は、経営の全責任を負っていますから、目配せはしなければなりません。そして時代の微細な変化(徴候)を見逃さないようにして、将来に向けて布石をし、後継者を育てるようにするのが、役割となります。
その上で日常の業務に関しては一切口出しをしないようにします。但し、経営理念は熟考を重ねて作成し、見えるところに掲げて置くのです。それで会社の方向を示し、日常業務に規範を与えるのです。トップは日常業務に口出しはしません。なぜかと云うと、まずトップというのは、業務の流れがよく解らないのが普通です。
例えばそれは税理士事務所のような専門職であっても同様です。社員が組織のなかで、あるいはお客さんとの関係においてどのような位置で、どのような合意を得て、どのような判断の基に仕事をしているかは判らなくなります。従って仕事は全て任してしまうことです。つまり状況が、よく分からないのに判断をし、指示を出すと、現場が混乱するだけでなく、それこそ社員のモチベーションを下げます。
ただ相談を受けたときは適格に判断をして、指示を出し、あるいは時々お得意を回って、その会社の社長の顔色や、雰囲気を感じてこなければなりません。自らの威厳や権威を嵩に来て、指示命令が社長の仕事だと夢思わないことです。組織においては社長職と雖も一つの機能に過ぎないのです。そのことはよく理解しておく必要があります。
その20 経営者のお色気と包容力
リーダーは徳を磨かねばなりません。では徳とはなにか、ということですが、杓子定規に有職故実を守ろう、ということではありません。昔あるお婆さんが、修業に明け暮れている若い真面目なお坊さんに、庵を与えて住まわせました。そしてある日、若い女を紹介したのです。
ところが、その坊さんは、「悟りを開いて、枯れた木の枝のようなもので、何も感じない」と云ったのです。そうすると、そのお婆さんは、「お前さんの悟りは、その程度のものか」と云ってそのお坊さんを庵から追い出してしまった、という逸話があります。
与謝野晶子は、やはり若いお坊さんに対して「柔肌の、熱き血潮に触れもみで、寂しからずや道を説く君」という歌を残しています。晶子は、ただ堅物の坊主を笑い飛ばしているのです。これは徳というより、包容力といった方がいいのでしょうか。また経営者というのは、見た目のお色気というのは大事です。
金儲けだけの経営者は人相が悪く下品になります。仕事オンリーでは、やはりどこか丸みが欠けるものです。服装は流行を追いすぎると、軽く見られますが、清潔で折り目の正しいものを身につけねばなりません。
よくよれよれの服装をし、ボサボサの頭をしている経営者というのは、見苦しいだけですし、多分社員にしても肩身の狭い思いをさしていることに間違いがありません。取引先からも疎んじられます。
要は姿勢・表情・言葉・行動をどのように美しく振舞うか、ということです。徳というのは、身から滲み出るものです。鍋島藩から出ている「葉隠れ」にも、武士は顔色が悪ければ紅をさせ、と書いてあります。
化粧をして、美しく見せる、ということより、その心意気に、周りが感応するのです。自民党の渡辺美智雄(平成7年9月没)は、亡くなる前日、TVに映し出されましたが、口紅をさしていたのが印象として残っています。国の要職にあるものとしての最後の品格を守ったのです。さすがですね。
その21 日本力は集団力
戦後はアメリカの真似をして、個人主義が流行りました。戦後一世を風靡した歌謡曲「青い山脈」は、その象徴です。その2番は「古い上衣よさようなら さみしい夢よさようなら」という歌詞で始まります。とても響きのいい唄で、私も大好きです。ここでの「古い上着」は旧来の文化を象徴しています。
この唄を以って、日本の集団主義は消滅したのか、と思っていたのですが、違いました。東日本大震災では、この協調的で、慎ましやかな日本人の姿が確認できたのです。これは驚きであると同時に、また再びの希望を湧かせるものでもありました。
つまり日本人をして「快」を感じさせるものの一つが、この集団主義なのです。しかしそれは日本人だけのものではないのかも知れません。アメリカの心理学者アブラハム・マズローは、人間が持つ根底的欲求として、性欲、食欲そして集団欲を挙げています。
人間が本能で快適と感じるものの中にこの「集団欲」があるのです。この集団欲を満たすための前提条件として言語、食べ物、風俗、習慣が基底にくるものと思います。例えば、私の家の右隣りがインド人、左隣りがロシア人、前がアフリカ人のそれぞれの家族であって、それぞれがお国の流儀に従って暮らしだしたらどうでしょうか。
それぞれが肩身の狭い思いがするはずです。国家という国の形が在って、国民がいるわけで、歴史をかけて形成した暗黙の了解(習慣)が「快」を呼ぶのです。昔は「ソニー」と言えば、日本を代表し、それは日本の誇りでもありました。しかし今や国籍不明の会社に成り下がりました。
経営も低迷しているようです。ソニーの無国籍化と業績の低迷は偶然の一致なのでしょうか。経営というのは、風土を抜きに考えてはいけないのです。またそれは経営者の使命でもあろうと思います。企業は営利を追求するものである、ということのみを前提とするのは明らかに間違いです。
その22 経営者より高給を取る社員を作れ
この集団主義を、企業にもう一度取り込まなくてはなりません。そしてその企業に帰属することが快適と感じるような組織作りをするのです。
給料の高い安いをインセンティブの一つにするような経営、すなわち能力主義は間違いです。今どれだけのノイローゼ患者が企業から出ているか、ということは、企業が行き過ぎた、顧客オンリー主義と、売上・業績至上主義に犯されていることに関係していることと思います。
大手企業であっても、48歳が、肩叩きの目安になっています。つまり48歳で能力が認められなければ、頸が飛ぶのです。これでは、技能や知識の伝授ができません。頸になるのを避けようと思えば、その技能は人に教える訳には参りません。秘匿することで、自らの地位を守ろうとします。
企業はその集団の中で技術を蓄え、承継し、育てていかなくてはなりません。それができなければ、その企業に存続する価値はないのです。組織は人間が作るものです。その要諦はお互いの関係性を強くすることなのです。
関係性というのは人と人との間柄のことであって、人と物の関係になってはいけないのです。そして営業の出来る人には営業を与え、財務に強い人には財務を与えます。営業ができるだけで、部長や取締役のポストを与えてはいけないのです。財務に強いからといって必ずしも、財務担当取締役が適任とは限りません。
仕事ができる人物というのは、自らを物「器」と考えていますから、部下にも「器」となることを強要するものです。むしろ営業も財務もまあまあだが、取締役は適任だ、という場合もあります。「器」には報酬を多く与えなければなりません。
しかし取締役には名誉(取締役への抜擢は名誉)を与えて報酬を多く与えてはなりません。代表取締役だからといって報酬が一番多い、というのは問題で、融通無碍で闊達な組織運営を標榜するなら、集団主義に大いなる工夫を加えることです。
その23 情で動くのが人
人はすべからく情動します。情で動くのです。人の情に感応し、あるいは、自らの心が動いて大いに働くのです。金力や権力に基礎を置く命令で人を使うというのは卑屈なものとなりしてすぐに限界が来ます。
理屈で動くかというとこれも違います。理屈が正しいから、間違っているからということでもありません。
例えば子供に早く勉強しなさい、と云えばどうなるか。親が子供に勉強を強要するのは、今勉強をしなければ大人になってから困るでしょう、という立派な理屈があるからですが、その理屈が正しいからと云って、子供は素直に受け入れるでしょうか。勉強をせよ、と云われること自体、子供は嫌なのです。また経営者だからと云って必ずしも、正しい情報や知識を持っているとは限りません。
昨今のことですから若い社員の方が知識や情報は豊である場合もあります。情で人を動かすのにコツがあるとすれば、その経営者がそこに居るというだけで、信頼感を沸かすようにしなければならないのです。
幕末から明治にかけて活躍した人に山岡鉄舟がいます。高橋泥舟や勝海舟とともに幕末の三舟といわれた英傑で、明治維新の立役者であり、剣の達人であり、書の達者であり、禅の大家でもありました。53歳で死にました。
・・・師匠(鉄舟)が稽古場に出てくると、口も利かずにただ座っているだけだが、それでもみんながすばらしく元気になってしまって・・・
(大森曹玄著「山岡鉄舟」)とあります。これはなぜかというと、山岡鉄舟には威光(威厳)があったからです。そして大いに尊敬がされていました。尊敬する人からの命令は嫌なものではありません。
寧ろ尊敬があれば、人は積極的にその人の云うことを聞くものです。このような経営者の姿というのは、理想です。社長は口も利かないのに社員が元気になってくれるというのです。
その24 バカ殿が演じられたら名経営者
先にリーダーが不在であると書きました。しかし日本のリーダーにカリスマは必要ではありません。英雄が出て国や組織を導くというのは、日本人には合わないのです。英雄が出るというのは本来不幸な社会です。
日本人は理知的で賢い民族です。マッカーサーは日本人の精神年齢を12歳といいました。それに妙な納得を示したのは、日本人が理知的な上に内省的であるからです。
明治元年(1868年)に明治政府の基本方針として五箇条のご誓文が発布されました。(1)広く会議を興し万機公論に決すべし、(2)上下心を一にして盛んに経綸を行うべし、(3)官武一途庶民に至るまで、各その志を遂げ、人心をして倦ましめるな、(4)旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし。(5)知識を世界に求め皇紀を振起すべし、というのがそれです。
今から143年も前、国家理念をこのようにまとめ上げた民族の精神年齢が12歳のわけがありません。これは現在の、各企業の経営理念に置き換えても立派に通用します。繊細な神経の基に根回しをし、合議をして、合意を形成する。このような国民性から考えれば日本のリーダーにはカリスマは似合わないのです。
そのような社会にあって経営者に要求される能力というのは、結局「人徳」だけです。菅首相はその辺が全然解っていません。有能な百官に任せればいいものを、しゃしゃり出て全てをぶち壊してしまいました。
菅首相に音頭を取るという感覚はないのだろうと思います。これは中小企業でも同じです。社員さんの経営者に対する不満というのは論理的で、経営の上で的を射てることが多いものです。ただそれが、トップに届くということはあまりありません。残念ながらシャイで内省的であるが故、内に込めてしまうのです。
では経営者はどうあるべきか。バカ殿を演じることです。本当のバカでは困りますが、バカを演じるのです。つまり経営者は馬鹿になる修行が必要なのです。これが24回連載の結論です。ありがとうございました。