マルチン・ブーバー仮説
前回は、すさみのマルチン・ブーバーについて書いた。しかしブーバーの思想背景を知らずに彼の老人が海魚やウリ坊と仲良しであるという一事で以って、ブーバーの称号を与えるのは正しいのであろうか。前回はその後段を書き終えるにおいて、このことが頭を過ぎったのである。
ところで、ブーバーのいう「我」と「汝」の関係をについてこれを探る前に「我」と「汝」の定義を知らねばならない。
そこでマルチン・ブーバーの本が欲しくなり、梅田の本屋さん2軒を梯子した。本というのは、定期購読しているようなものを除き、未知のものを、いきなりネットで買うのは勇気がいる。やはり手に取って、パラパラとめくってから買うか買わないかを決めることである。それが難解なものであれば、なおさらだ。
しかし2軒とも置いていない。そこで、とりあえずマルチン・ブーバーをネットで調べることにした。
そうするとあった。そのいくつかはブーバーいう「我」と「汝」を解説している。面白いのがあつた。
何と書いてあったかというと
「われとなんじとは神に相対する自己である。つまり信仰の構図である。なんじはイエス・クリストという愛の人である」
というのである。
しかし、「汝」が「イエス・クリスト」というのは、間違っていると思う。
そもそも「汝」という呼称は、「そち」か「そなた」という意味だ。
ラマナ・マハルシはヒンズー教の人であるが、この「我」に「真」を冠して「真我」というようなことを言っている。ラマナ・マハルシの云う「真我」は、自らの内にあって、「永遠不滅の我」というほどの意味だ。ここでは肉体は滅びても、「真我」はそのままであるということになっている。
仏教もまた、自らの内に仏を観る。この場合の仏とは、ラマナ・マハルシの真我に近いものがあるが、違うのは仏教では、この仏もまた輪廻転生して、不滅のものではないという点にあると思う。
成長の家の創始者谷口雅春は、この辺りを説明して、人間の中心には「本体=神の生命」があり、これを「霊体=幽体の核心となる清浄の体」が取り巻き、その外側に「幽体=想念感情の座であり、想念感情の形に変化し、想念感情を記憶する」がある。
更にその外側に「エーテル体=知覚の媒体となり活力を与える」があって、一番外側にあるのが肉体であると、解説している。
つまり谷口雅春の説くところ人間の本体は神の生命であり、人間は5重の層から成り立っているということになる。
このような解釈のほうが理解はしやすいように思う。
神社に行くと、その神殿の中心には「カガミ=鏡」が置いてある。なぜカガミというと、カガミは人を写すも、人がその前を去るとカガミは元(無)に還る、すなわち清浄になる。カガミから「ガ」を取れば、「カミ=神」になるではないか、という話を聞いたことがあるが、話の真贋はさて置くとしても、面白いと思う。
従って、神道では「我(われ)=(我)ガ」となり、「我」といった場合は、肉体を含めた谷口雅春いうところの「神の生命」以外の一切を指すことなる。「仏」のことではない。
日本人なら、ブーバーのいう「我=われ」を解釈して、この肉体を持った「我」とし、「汝」をイエス・クリストと解釈するのは、いたし方がないところかとも思う。
ところで「ととは神に相対する自己である」とするのはどうか。「我」と「汝」以外に「神」を想定したのはやはり間違いだろう。これではブーバーを誤解したことにしかならないのではないか。
よく知らないがキリスト教においての神は絶対的なものであろう。ブーバーがとの関係を相対的と解釈したのであれば、西洋においては、ヨーロッパ人を驚かすに十分であり、同時に、日本人にとってそれは仏教の延長であるから、理解しやすかったのではないかと思う。
「同行二人」といった場合、お大師様が仏であり、対する私が「汝」ということになる。汝を支配するものが仏であり、人それぞれに機根が違うのであるから、当然その内ある、お大師様も人それぞれということになる。この場合のお大師様はアダム・カドモンと言って構わないだろう。
ここが仏教の面白いところで、それぞれにそれぞれの仏がいるわけだから、それを認めてしまえば、喧嘩にはならない。お経も大概は「如是我聞」で始まる。これは「我かく聞けり」ということだから「私はこう聞いた」、「貴殿はそう聞かれたか、しか拙者はこう聞いたのだ、まあよかろう」ということで、争いにはならないのである。
従って仏=アダム・カドモンは、これを理解する人間の数だけいることになる。
またわれとなんじの関係は、他人との関係においては「我」と「我」の関係もあり、「我」と「汝」の関係もあり、「汝」と「汝」の関係もあるということになる。男と女の関係などは大抵は「汝」と「汝」の関係と言い得るだろう。
それぞれの機根の相違まで視野に入れれば、その関係性は、その時々においても無数に存在することになる。
すなわちいつも会っている「あいつ」であっても、日々においてはその関係性たるや、それこそ「日々新た」ということになる。
ところですさみのマルチン・ブーバーは本物か。白隠禅師の座禅和算を紐解くと、
「布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 その品多き諸善行 皆此の中に帰するなり 一座の功を成す人も 積し無量の罪ほろぶ」とある。
つまり修行することで、仏を発見することを薦めているのである。
仏法では天然の善は全き善ではない。ブーバーが幼少において馬と心が通っていたというだけで、ブーバーの哲学であるとというような思想が生まれるわけではなく、それは、何か自己を超克すべき必然があり、懊悩と思索との結果とみることができると思うのである。
また仏法は無師独悟を嫌う。ではお釈迦様はどうであったか、無師独悟ではないか、と言わないで頂きたい。仏法では生まれたままでは、仮にアダム・カドモンの片鱗が潜んではいても、それを悟りとは言わないようだ。
大森曹玄老師はその著書の中で「山岡鉄舟」にふれて、晩年の鉄舟が座禅を組んでいると、鼠が鉄舟の肩に載って遊んだという。ここまで行けば本物だろう。詳細は割愛するが、山岡鉄舟は、剣と禅の道を究めるために、厳しい修行に励んだ人である。
鉄舟は“色情修行”もやった。いわゆる徹底した女遊びをやったのである。
鉄舟があるとき
「色情というものは一切衆生の生死の根本だから、実にしつこいものだ」
という、弟の飛馬吉が
「色情などというのは年をとれば誰でも自然になくなりますよ」
と笑った。
「馬鹿なことをいうな。お前のいう、“色情”とは、肉体的欲望、性欲のことだ。そんなものならおれは三十のころから、心を動かさなかった。しかし男女という差別の観念が、根こそぎなくならなければ、ほんものではない」
鉄舟のいわゆる“色情修行”とは、一切の相対的分別の根本というべき、男女相対の念を脱超することである。そして生死から自由になることをいうのである。
― 大森曹玄著「山岡鉄舟」 ―
己を殺して己を活かしきったのが山岡鉄舟であって、ブーバーのいう、相対的観念を明らかに超克している。
すさみのヘンコ親父については、この辺りのことが判らないのである。
すなわち、動物と仲良くなれるだけのただの凡人なのか。あるいはブーバーのような思想性を持っているのか。はたまた、鉄舟の域に達しているのか。というようなことだ。
まあ、鉄舟の域でないことは確かだろう。
ネットという極めて不確かな情報源を基にしたところの想像が生んだマルチン・ブーバーに対する私の仮説である。いずれ本を購入して確認をしてみようか。
しかしなあ、難解で分厚い本を読むエネルギーは既に失せているしなあ。