消費税が与える中小企業経営への影響

平成22年7月2日
 特定非営利法人関西事業再生支援センター
理事(税理士)倉矢 勇

以下の文章は、日日新聞のコラム「大阪の中小企業を元気に」に連載されるものです。7月から週1回の割合で15回、10月初めまで続きます。

(1)消費税の増税が参議院選挙のテーマとして上がった。消費税は景気の変動を受けない税制であるというのが、一般的理解ある。
また消費税は間接税であり、最終的な負担者は消費者であるから、企業経営には影響を与えるものではないということになっている。果たしてそうか。日本の消費税は帳簿方式であり、伝票(インボイス)方式ではない。そのため、必ずしも売り上げに上乗せできるとは限らず、立場が弱ければ自らが負担しなければならない。
私は消費税が中小企業の経営を悪化させた理由の一つではないか、と考えている。消費税が始めて導入されたのは1989年、竹下内閣のときである。1997年、橋本内閣は消費税率を5%にアップした。
バブルは消費税導入後の1991年ごろに崩壊する。また橋本内閣は消費税を上げたことで、当時、折角回復しかけていた景気の腰を折ったことを、自らの責任としたのである。
消費税は、最終的には消費者が負担するものではあるにせよ、国民には好感を持って迎えられたわけではない。消費というのは、趣味的支出を除き、止むにやまれず支出するものだ。そこに課税されるわけで、腹立たしいものであることは事実であろう。
有雇用事業所の開業率は1988年頃から、減少に転じ、廃業率は1996年頃から上昇に転じた。日本が市場経済主義に毒されたことと、消費税の導入が複合したことが、日本から活力が消えた大きな要素ではないか。

(2)消費税に平行して、中小企業の経営環境を悪くしたのが、市場経済主義という原理思考で、元首相である小泉純一郎氏や竹中平蔵氏がそのような考え方の持ち主であった。
市場経済主義というのは、商品やサービスの量や価格については、自由取引に任すべきというもの。その結果、安売り合戦が始まり、金融力のある大手小売業が市場価格を牛耳ることになってしまった。
始末が悪いことに、安く買うことは消費者の要求でもあるという点である。人間の社会は強者が弱者を支えるということで成立している。アブラハム・マズローは欲求の5段階説を唱え、その人間の一番底辺にくる根源的欲求には3つあり、性欲と食欲と集団欲であるとした。
日本が経済において旭日のごとき勢いを発揮した時期、日本の製造業は集団に基づいた雁行的生産方式にあると、もてはやされたものである。
市場経済主義はこのような日本の慣行を根こそぎ破壊した。ゴルフは紳士のスポーツであるといわれる。参加者すべてに実力に応じたハンディを与えられ、競争はあるにしても、参加者全員が楽しく遊ぶことができる仕組みになっている。
アフリカに行けば象さんもキリンさんも、草を食って遊ぶだけだ。人間は万物の霊長といわれているのだから、少し知恵を出せば、年間3万人の自殺者を防げると思う。
むきだしの経済競争が行われるというのは、日本の国柄からしても避なければならない。

(3)消費税が今後増税に転じた場合、経営はどうなっていくのか。感覚的ではあるが、大手企業はさておくとしても、中小企業経営にとって、規模が小さければ小さいほど、悪い影響の方が強く出るだろう。
資金力ある企業であれば消費税を価額に転化することは可能だ。そうでない企業にとっては、値下げ圧力というかたち、すなわち消費税の増税部分が利益との相殺ということになって表れてくる。
資本力があれば直接小売業に参入すればいい。現状がそうである。いい例がコンビニエンスストアーの隆盛だろう。ただ大手小売業がすべて、利益を出しているわけでもない。名門の百貨店も廃業が多くなっている。
もう一つの問題は、消費税率が10%ということなると、脱税も増加してくる。例えば自らが製造した最終製品を内緒で小売すれば、市場での価額に比して少なくとも10%の価格競争力を持つ。
それは消費者にとっても利益だ。当然消費税にはつながらず、その結果として法人税も所得税も地下に潜る。前門には大手企業が立ち塞がり、後門には隠れ業者が迫り、真っ当な中小企業はますます窮地に追い込まれるであろう。
消費税率を上げるのであれば、ただ税率だけを議論するのではなく、予想されうる不公正をどのように担保するのかということも考えなければならない。

(4)現在、消費税率を10%にすることと平行して所得税を上げ、法人税を下げるということが議論されている。
現在の法人所得に対する税率は法人税と地方税(事業税を除く)を合わせ、概ね36%程度。他方個人所得税と住民税を含めた最高税率は50%だ。
法人所得に対する税率と個人所得に対する最高税率の差は既に16%もある。法人税率が下がり、個人の最高税率が更に上がることになれば、経営者はこれをどのように捉えるか。業績の良いオーナー企業であれば、経営者一族の給料を法人税率の最高額に合わせて下げるだろう。
その分、会社に留保した方が得だからである。1990年から今日に至るまで、すべての税目を合わせた国税の収入は増加していない。この間、所得税も下がり法人税も下がった。消費税も5%(正確には国税部分は4%)になった翌年度の1998年からはおむね10兆円前後で推移している。
消費税の税率が10%になれば、その国税収入は理屈上20兆円だ。法人税収入が下がれば、連動して地方税収入も下がる。高額所得者の所得税収入は増加するかも知れないが、平均的日本人の所得水準も下がって消費支出も減る。 消費税率が10%になったとしても、このような経済状態が続けば、国の税収は50兆円が関の山ではない。今年の国の予算でみてもおよそ50兆円が、不足することになる。税制の論議は国造りとセットで考えるべきことなのだ。

(5)法人税は会計上の利益から課税所得を誘導して、法人税を算出する。
他方消費税は、会計帳簿から課税売上を算定し、同時に課税仕入を算定して、それぞれに税率を乗じた差額として算出する。消費税は一種の付加価値税である。 法人税も消費税も会計帳簿を基にする、という点に同じである。法人税と消費税は全く別の税金ではなく、二重課税に該当するのではないか。
企業は厳しい価格競争に晒されているわけで、消費税率は10%になっても、小売価格が同時に10%上昇することにはならないだろう。流通過程では凄まじいコスト削減圧力が強まり、企業の利益(付加価値)は圧迫される。
税率を上げてもその消費税額は、一部が相殺されると思う。企業は生き残りを賭けて鎬を削り、勝ち残れば利益は大きくなる。これは傾向として既に出てきているところでもある。
経営で一番大きいコストである人件費は、非正規雇用が常態化して更に下がる。コスト削減の必要から企業の海外生産には拍車がかかり、国内における倒産や廃業、企業規模の縮小により失業者も溢れる。
そのうち子供手当ならぬ大人手当も出さなければならなくなる。このような状況では購買力は落ち、消費が減る。企業はこれまで以上にコスト削減をしなければならない。悪循環に陥り、日本の経済はつるべ落としとなる。
今が既にこのような状態なのに、民主党も自民党も消費税率を10%にするといっている。困ったことだ。

(6)最近、ここ20年間ぐらいの税制改正や、市場経済主義の流れをみていると、その恩恵を十分に享受しているのが大手流通業であるように見える。
昔、松下幸之助とダイエーの中内功が喧嘩をしたことがあった。これは価格決定権を巡って両者が争い、当時の松下電器はダイエーには製品を売らなかった。このせめぎ合いは、時間を経て小売業に軍配が上がったのだ。
今や小売価格の決定権は小売業が握っている。日本の製造業は、農耕民族のDNAを持っている。製造業は、社員の和合、一致協力を旨としなければ良い製品は生まれない。他方、小売業は安く買って高く売ればよいわけで、狩人的DNAを持っているのである。
煙草や、酒、パンから味噌醤油まで扱う街の雑貨屋は消えて久しい。これは日本がアメリカを真似て市場経済主義を標榜し、大手小売業が日本の小売価格を左右しだしたからである。
10年以上も前のことであったが、新聞広告に入っていたチラシの商品には、メーカー希望小売価格が表示されていた。メーカーが主体となって小売業者と協調的に価額を決めていたのだ。今から思うとほほえましくさえある。
この時期が一番、日本人にも中小企業にも幸せな時代ではなかったか。こうしたことが無くなったのは、独禁法の関係もあるのだろう。逆に考えれば独禁法の条文一条を変えるだけでも、経済の流れは変わるかも知れないのである。

(7)「衣食足りて、礼節を知る」というのは、万劫不易の真理である。最近親殺しや子殺しが増えているとの報道がよくされる。
解雇を巡っての争いも増加しているようである。これは必ずしも現在の日本人が劣化したからではなく、人間というのは本来そうしたもので、いついかなる劣悪な状況においても平静を保てるのは、ごく限られた人でしかない。
ここに政府が善政を敷かねばならない理由がある。八重山諸島には1637年から1903年まで続いた人頭税があった。
琉球王国は、中国などとの貿易により、巨利を得ていたが、これに目を付けた薩摩の島津氏が琉球王国を武力でもって支配下に置き、搾取を始めたのだ。琉球王国は薩摩の支配に屈し、15歳から50歳までの八重山住民に対し、海産物や陸産物などの物産税を強い、1月のうち、20日の公役を課すという過酷な税制度を設けたのである。
その結果、脱村や逃避による人口減だけでなく嬰児埋殺、堕胎、幼児絞殺が半ば公然と行われることとなった。今も日本政府が沖縄からよく思われないのは、米国との沖縄戦で多数の住民が殺されたとか、米軍の基地を置いているとかだけのことではなく、このような歴史的背景からくる、根深いものがあるのだろう。
税制というのは、国の習慣や文化の形を決めるほどの大きな力を持っている。国家を恨むような国民をつくらないためにも、安易に消費税率を10%にするなどということは避けねばならないのだ。

 (8)日本政府に対する我が国民の信頼は、高いものではないと思う。それには太平洋戦争での敗戦ということもある。信頼が高ければ、保守党である自民党が昨年の衆議院選挙で左翼政党に大敗することなどなかった。
1950年、シャウプ税制勧告を基にした税制度の改革が始まった。占領軍の徴税督励は税収確保のために税務行政の円滑な運営を阻害し、税務署は更正決定を乱発した。当時は7割の事業者が税務調査において更正決定処分を受けたのである。
大型滞納処分物件を乗せるためにジープとトラックを乗りつけ、財産を没収するという、考えられない過酷な税務調査が実施されたのだ。いつ共産革命が起きても不思議ではない状態であったという。このようなことも国民が政府に対して不信感を持つ大きな原因となり、今日に至っているのだろう。
大正時代の終わりに発刊された「大日本租税志」に目を通すと、時代は遡るが文禄3年、関白豊臣秀吉検地條令に「検地帳ハ百姓ニモ之ヲ写サシメ、検地奉行證印シテ下付スヘシ」、「検地ノ帳簿ハ一々百姓ニ示シ、異同ヲ審査セシムヘシ」「検地ハ卯ノ半時(8:30)ヨリ申ノ上刻(16:00)マテトス」、などとの記述が見られる。
封建時代=圧政と思い勝ちだが、想像する以上に当時の政府は、農民に気を配っていたようだ。今の世に豊臣秀吉が現れて、政策論争になっている消費税率10%という数字を知ればどのような感慨を持つだろう。

 (9)国民は消費をすることで、税金の納税義務を負うということに過敏になっている。セーブマネー、という思いと平行してそこには政府は信用できない、という意識の歴史的な積み上げがあるのだ。
その反動で企業は、消費者から消費税を相殺する値下げ要求を突きつけられることになる。企業はこの期待に応えるために、海外で生産をし、物流過程を整理統合し、企業内部においてはリストラをしなければならない。その結果として、給料は下がり失業が増える。
購買意欲を刺激するために、更に物価を下げねばならないという悪循環に陥ってしまっているのが現状だろう。デフレの要因を消費税だけに求めるのは間違っていると思うが、一国の税制はその国の文化をも左右する力を持っている。京都に行けば昔ながら町屋が見られる。京都の町屋は、表向き2,3間であっても中に入れば奥行きがありしかも広い。今はどうか知ないが、昔は染物の工場があったりした。このような町屋は、平安京の坊条制で区切られた桝目を単位として家を建て、租税をかけた名残だそうである。
今の若い人は車の免許には興味を示さない。つまり若い人たちは、維持費のかかる車をもって消費することに興味が持てないのだ。
消費税は、日本人に慎ましやかな生活を取り戻す、一役を担った、といえば皮肉になるのだろうか。

 (10)メーカーであれば自らが製造した製品に対して、価額を付ける最初の権利者であり、生産者としての誇りでもある。
今は先ず大手の小売業者が、同業者の店頭価額を横目でみながら、メーカーや商社に発注をする。受けた方は、その価額に合うように入手ルートを考え製造工程の合理化をして、コストを下げなければならない。
それでは、メーカーは矜持を持つことはできない。これは消費税の問題だけではなく市場経済主義というというアメリカ生まれの思想が、徘徊し、悪さをしていることも事実である。明治以降、日本が幸せを感じた時代は2回あった。 一回目は日露戦争で勝利したとき、2回目は高度成長期である。1回目は日本人であることの矜持を満喫し、2回目には経済的豊かさの高揚感に浸ったのだ。「希望は未来にはなく、過去にある」というのは卓見だと思う。政府には本当の国力とは何かということを考えて欲しい。そして高度成長期の活力を復活させることだ。
日本の未来は日露戦争勝利と、高度成長期の要因に見出すことができる。昨日6月25日の未明、ワールドカップサッカー大会において日本がデンマークを破った。テレビを見ていると、日本の若い人たちが歓喜している場面が映し出されていた。
この若人たちが希望と誇りを持てる国創りをしなければならない。また消費税を論じるなら、深く広くそして多面的でなければならない。消費税率10%だけが新聞紙上で踊るようなことでは、中小企業の復活も、経済の回復もあり得ないのだ。民主党政権は、「中小企業憲章」なるものの草案を発表した。
期待をしてよいのだろうか。

(11)民主党も自民党も消費税率10%を標榜した。今、中小企業で売り上げに対する経常利益が5%も出ているところは、どれだけあるだろうか。
5%の消費税率の上昇は、もし転化ができなければ、自社負担になるから、辛うじて出ている利益が飛んでしまう可能性がある。できたら3%に戻すことだ。そしてもう一度製造業を中心とした産業が日本に戻ってくるような政策を考えるのである。
市場経済主義との決別も必要だ。消費税率を10%にする前に、企業に帰属することになっている益税問題を解消しなければならない。詳細は割愛するが、小売価額に含まれる消費税が、益税として流通過程で業者の懐に納まっているように見えるのは、消費者サイドからすれば怨磋の的でしかない。
そのためにも一旦は税率を3%に戻し、1~2年をかけて条件を整備した上で、税率を上げる算段をすべきだろう。消費税は確かに景気の変動をあまり受けない税制であるから、そうした点ではすぐれている。
給与所得の源泉徴収及び年末調整は、知らない間に税金が引かれる制度で、確定申告が望ましいという意見もある。しかし私は徴税コストなどを考えるなら、企業の側に負担がかかるにせよ、いい方式だと思う。
消費税も企業の側が計算して納税することになっていて、しかも計算が法人税に比べて簡便である。戦前の日本では間接税が主流であった。日露戦争の頃、日本の税収に占める割合が一番多かったのが何と酒税である。ノンベエが酒を飲んで目を回しながら国も回していたのだ。

(12)中小企業の状態を悪くした理由を、外部にのみ求めるのは間違っている。傍目八目の論理で企業を観察すると、外部環境の悪化のみが企業経営を悪くしているわけではない。しかし土俵上のルールが、ある日突然変わったのでは、戦えない企業が出てくるのは当然である。
ルールの変更とは、消費税の性質をよく研究せずに導入したことや、市場経済主義に舵を切ったことだけでない。週休二日制が常態となり、労働時間が短縮され、残業手当が増加するなどして、賃金が相対的に高くなってしまったことなど労働行政の変化も、大きく影響している。
こうした労働環境の変化が、逆に企業の海外展開を促進し、国内の雇用を奪う方向に作用したという側面もあるだろう。他にも為替の問題や貿易摩擦等などの問題が複合して、海外生産が多くなったわけで、中小企業の経営環境悪化の原因を政府の失策にのみ求めるのは正しくない。
ただ残念に思うのは、今度の参議院選挙で政権政党である民主党が、鳩山首相が引退したとたん、舌の根も乾かぬうちに、消費税増税論を打ち出したことだ。言葉と行動に慎重さや深さがない。
バッタが外敵に反応するがごとく、その場その場の繕いになっている。自民党政権のときもそうだが、遠くに慮りがないために、近くに憂いを引き寄せ、国民からの信頼を失っている。民主党政権になってこのブレは更に酷くなった。

(13)日本の経済を底上げするためには、まず製造業を守らねばならない。そのためには、市場経済主義から脱却するとともに、製造業者の系列化を促して、相互の利益を擁護することだ。
同様に小売業の利益も擁護しつつ、大手資本やその系列の店舗面積や店舗数は制限して、小資本での小売業参入が容易であるように道を開くのである。 
当然小売業者の利益も保護されるべき。独禁法の制約があるのであれば、見直せばいい。そうすれば雇用も増え、個人の所得も増加する。物価は上昇するかも知れないが、所得が増加して、生活が安定するのであれば、いいではないか。経済活動の局面において人を消費者としてのみ見るのは、人の半分しか見ていないことになる。
企業経営で利益が出しやすくなれば、それは製品や商品の付加価値が高まったことでもあるから、消費税は税率をあげなくても増加するだろう。そうなれば消費税に止まらず法人税も所得税も増加する。
政府は子供手当を創設することでハンディを子供の抱えた家庭に与えた。こうしたハンディは企業にこそ与えるべきである。企業にハンディを与えるというのは、子供手当のように政府が個々の企業に直接支援をするということではなく、商品やサービスなど、その物流システムを総合観察して、配慮をするということだ。
これで日本は万々歳と思うが、なんせ今の政権は左翼である

(14)消費税には問題が多いというのは、企業経営を直撃し、経済を疲弊さしてしまうからである。
税制というのは、どのようなものであれ、民間財産の収奪という側面を持っている。国家目的達成のための必要悪であるから、税をとるのは怪しからんということではない。
社会的通念としての平等というのは、無差別平等である。無差別平等というのは飴玉が50個あるとし、これを5人で分ける場合1人10個ということだ。しかし平等にはもう一つの視点として、差別平等がある。例えば、手の大きさに応じて一掴みづつ取ることにすれば90歳のじいちゃんが一番多くなるかも知れない。
消費税が導入されるまでは奢侈品に課税される物品税があった。奢侈品にのみ課税するのはけしからんとの意見もあったが、消費税ほどは怨嗟がなかった。それはすべての商品やサービスに課税されるものではなかったということもあろうが、想像するに「私には500万円も出して、ダイヤモンドの宝石を買うことができる」というお金持ちの心をくすぐる税金であったということもその要因ではなかったか。
人は無差別に平等に扱われることは腹立たしいが、特別に扱われることは気分が良いのである。物品税は、根底に差別平等を隠していたのだ。そうした意味では、消費税を複数税率にして食料品を安くするという案よりも、管首相が言うように低所得者層に還付するという方法が民意に適うのかも知れない。
しかし余程考えないと消費税のアップが還付と相殺されることになる。鳩山首相もそうだったが管首相も甘い。この辺りに民主党政権の限界を見る思いがする。

(15)国家とその国の税制とは、切って切り離せるものではない。税は国家そのものである。今年から法人事業税の一部が国税に変った。
事業税は遡れば租・庸・調の「調」にまで辿り着く。律令国家の時代には「調」として絹や烏賊など、その地で採取される殆どのものが課税の対象とされていた。「近江鮒」なども課税対象として出てくるから、笑ってしまう。
それが運上・冥加に変り、明治の初頭には雑税として残った。1878年には、舟税などとともに廃止され、営業税(地方税)になった。この営業税が1896年に一部が国税となり、1943年には現在の事業税(地方税)となったのである。
それが今年からまたその一部が国税に移った。従って税制というのは、時代を反映し時代とともに変化をする。しかし他方において国にはいい風潮・国柄というものがあり、そこを大きく変えるような税制であってはならないと思う。
日本人の特質は、聖徳太子の時代から、和を重んじてきた。家族も大切にしてきた。日露戦争も戦後の高度成長期も、日本人の良さがフルに発揮された結果なのである。従って税制を新しく設ける場合であっても、日本人の文化や慣習には大いに尊重し配慮しなければならない。
先に紹介をした豊臣秀吉検地條令などにも、民百姓への配慮が色濃く出ている。そうした観点からすれば子供手当を作って、扶養手当を廃止にするなどは、いかがなものか。
国民から歓迎されないまでも支持される否か、消費税も設計の仕様如何にかかっているのである。

前の記事

梅雨の合間に

次の記事

マルチン・ブーバーの喫茶店