会計事務所の生産性

「生産」を「付加価値のある商品をつくること」だと定義すれば、「生産力」とはそれを生み出す力ということになります。しかし生産性とは生産力のことではありません。
 生産力だけ問うのであれば、時間やコストを意識することなく人の雇用とそれなりの設備を投入すればよいことになります。人の能力や設備の効率性を考えなくてもよいわけです。ところが生産性を問うということになれば、話は違ってきます。生産性というのは、技術、技能の向上、設備の斬新性というところから、考えねばなりません。
 本日のテーマは会計事務所の生産性ということです。
会計事務所の生産性は人で決ります。パソコンの性能や会計ソフト使い勝手などというのはたいした問題ではありません。
 必要なのは、専門知識との広汎さと仕事をする上でのセンスといってよいでしょうか。
この専門知識は短時間で吸収できるものではありません。
税務や会計の初歩を学びだすと、誰かにしゃべってみたくなるものです。人にしゃべると自らの知識に欠陥があるというのがすぐわかります。そこでまた事務所に帰って調べ直しをします。実務の実践力というのは、そのようにして鍛えていくものなのです。
 ところで専門的知識を生産性の関係はどうでしょうか。
例えばクライアントから質問を受けて、即答しなかったとします。するとそのことをクライアントがどう受け止めるかということです。
 この場合クライアント側には二つの受け止め方があります。一つは「何だ、こんなことがわからないのか」と誤解される場合。もう一つは「そうか、専門家でも直ぐには判らないほど、難しい問題なのか」と取られる場合です。
 こんな小噺があります。アメリカでの話です。ある弁護士が女婿の弁護士にある仕事を譲りました。娘婿は、その結末を嬉々として義父に報告しました。「お義父さん、お義父さんが10年もかかって解決できなかった事件を、私はたった一日で解決してきました」。それに対して義父は何と答えたか、「おまえはアホか、わしはあの事件で10年間飯を食ってきたのだ」。
ケッシテ、ワタシノコトデハアリマセン、ネンノタメ。
 専門家の生産性はこんなところにもあるのです。あまり迅速に仕事をすると、お金になりません。「何だ、そんなものか」と取られます。姑息ですが丁寧なふりをすることも大事です。
ケッシテ、ケッシテ、ワタシノコトデハアリマセン。
実は私の欠点は正直すぎて金儲けが下手なところです。生産性を上げるのは大事ですが、上げすぎると、逆に生産性?を落とします。
結果が即座に見通せるようなケースでは、簡単に応えてしまいがちです。ところが、クライアントにはその道筋がよく判らないということもあるわけです。ことに専門用語を使うときは要注意です。専門用語というのは専門分野では言葉の定義がはっきりしています。従ってメリハリのある話ができるわけです。
専門用語は便利なのですが、聞き手は、用語の定義や厳密性について理解できず、質問の糸口すら掴めないということもあります。また人にはプライドもありますから、質問することを恥じることもあります。このようなときは、懇切丁寧に時間を掛けることも必要になります。クライアントの心裡を正しく掴むことも生産性を問う上で大事です。
 また税務は毎年変わるから大変ですね、ということをよくいわれます。それはそうなのですが、税法の本質的なところの理解ができているなら、その改正にもたやすくついていくことができるものです。それもまあ年齢に関係するでしょうから、70歳あたりが限度かも知れません。しかし「もうはまだなり、まだはもうなり」といいますから、ひょっとすると、私などはそろそろヤバイかも。
 もう一つ、生産性を考える上での要素は、それぞれの局面での判断力と決定力です。これは一つの問題に対して複数の対処方法がある場合、そのいずれを選択するかということですから、義務・権限を伴います。
 問題の質とそれぞれの立場上の義務・権限の関係は、当然明らかにしておく必要があります。

企業経営において、財務諸表つまり貸借対照表や損益計算書というのは、その企業を理解する唯一の武器です。企業にはそれぞれの分野があります。例えば営業部門や、生産現場などがそうです。
財務諸表はそうした分野を集大成して企業を総合的に観察する上で是非なくてはならないもので、財務諸表なくして企業の定量部分は読めません。企業経営というのは、時代の変化を加味しながら先ずその企業の状態を観察し、足らずを補い、強みを更に強化して、安定させていくのが常道といえます。
 また財務諸表は、毎日の地道な記帳の上に成り立っているものです。ここを疎かにして、正確な財務諸表ができるわけがありません。
 では記帳を誤魔化して、そこから財務諸表を導いたとします。まず間違いなく経営判断が狂います。それが仮に粉飾であった場合などはいずれ倒産に直結します。
 粉飾というのは麻薬を打つのと同じで、経営者の脳はそれを現実と受け止めます。
従って記帳の出来、不出来で会社の将来を占うことができます。記帳の出来が悪いのは担当者の責任ではなく、経営者の稚拙さによるのです。会計記帳は勘定科目の設定や、記録のルール、タイミングについて厳しく迅速であればあるほどよいのです。
 記帳代行会社や税理士に記帳業務を全面的に任すようでは、会社の先は知れています。
これは生産性の問題というより、企業の側で事の軽重をどのように判断するかということです。
日本での複式簿記による記帳の歴史は高々60年に過ぎません。しかもそれは納税という国家要請に基づくものでありました。
 シャウプ税制勧告を基にした税制度の改革は1950年(昭和25年)に始まりました。占領軍の徴税督励は税収確保のために税務行政の円滑な運営を阻害しました。税務署は税収確保のために更正決定を乱発したのです。当時は7割の事業者が税務調査において更正決定処分を受けておりました。
ジープとトラックで乗りつけ、生活に必要なミニマム物件を除き、財産を没収するという、今では考えられない過酷な税務調査が実施されたのです。
 日本で法人税が誕生したのは、1899年(明治32年)のことですが、当時の法人税は損益計算書を国に提出し、それに基づいて国が法人税を計算して課税するという賦課徴収方式でした。当時の損益計算書がどれだけの精度を持っていたかは、知りませんが、それは複式簿記記帳が前提ではなく、会計知識もそれほど普及はしていなかったことでしょうから、いい加減なものではなかったでしょうか。
 戦前においては間接税が主流でした。日露戦争の頃、国の税収に占める割合で一番多かったのは酒税でした。今では信じられません。
複式簿記による記帳を基にした申告納税方式に改められたのは戦後のことです。現在でもドイツなどはこの賦課課税方式を採っています。
 ヨーロッパでは、1400年代にイタリアの幾何学者であり僧侶でもあったルカ・パチョーリが現在の貸借対照表と損益計算書の基礎を作りました。1600年代のことですがルイ14世の時代には、会社が倒産したとき、複式簿記による帳簿が提出できない企業家は死刑にされました。
 日本の不幸は、複式簿記による会計帳簿の作成が国の徴税目的で実施され、しかも初期の段階で、有無をいわせぬ強圧的な財産の没収が実施されたということです。
このことが、会計帳簿は国のためにつけるものであり、脱税は疾しいことではないという意識を植え付ける結果となったのです。国の代表である鳩山首相や小沢幹事長でさえも納税に関して意識レベルが低いとうのは残念なことです。
 従って会計事務所の生産性というのは、単に会計及び税務知識があればいいというものではなく、そうした日本の税務会計の特殊事情を理解した上に成り立っているということも理解しなければなりません。
 こうしたことがなぜ生産性に直結するかというと、会計帳簿を正しくつけることが経営の王道であり、企業の繁栄を保証し、納税の義務を果たすことが企業(及び経営者)の社会的認知度を高めることであるとの理解を得ることが、税理士事務所に対する正しい評価につながるからです。
 税理士が税務署の下請けであり、あるいは脱税をしてくれる人であるというのが一般的社会の評価であるなら、これは悲しいことです。会計帳簿を介在として企業の価値を高めることこそ税理士の社会的使命でなくてはなりません。

 理想をいえば、会計事務所業務の主たる業務は税務・会計に関する判断業務と、保証業務です。記帳代行は本質業務ではありません。記帳を引き受けるのは、ある意味において楽な仕事です。それは具体的に見える仕事を代行するのですから、お客さんには説得力を持つことになります。
しかし記帳はその道のプロとはいえども第三者にはできません。なぜなら事実関係の確証ができないからです。例えば(売掛金/売上)の仕訳一つを取り上げても、その仕訳を起こすまでには、仕入、生産、納品という手続きと時間を経ているのです。
そうした経過を知らずに、単に請求書のみから(売掛金/売上)の仕訳を起こして間違いはないのかという問題があります。しかもこの仕訳一つが、法人税や消費税に直結した法律行為でもありますから、責任の分配も伴います。
保証業務というのは、財務諸表が正確出来上がっており、しかも租税も正しく計算され納税されていること国に対してあるいは債権者に対して税理士が証明をすることです。これに関しては会社法上の会計参与制度や税理士法上の書面添付制度ができております。

生産性を問う上で、職員の問題は重要です。これは最初に書いたとおりです。
経営者は従業員に金太郎飴を求めます。経営者の考えることを以心伝心で理解し、即座に実行してくれる人物、それが金太郎飴です。
 しかしそのような人物はいません。しかも人というのは一旦職員として採用したなら、よほどのことがない限り、運命を共にする覚悟が必要です。
採用した以上は、それがどのような個性であれ、うまく機能してくれるように工夫もしなければなりません。ではどのように処遇すればよいのか、ということです。
 会計事務所の仕事というのは、単に簿記会計の知識があればよい、というものではありません。企業の存続そのものが難しい時代になってきていますから、関与先企業の内部まで踏込まなければなりません。すなわち関与先の人事、販売、製造工程にまでの理解が必要だということです。
 こうした時代には、社会的経験のより豊かな老成して人物のほうが会計事務所の職員としては、採用の価値があるようにも思います。
しかし年齢の高いことが老成を意味するものではありません。
他方においては、関与先の経営者もどんどん若くなっておりますから、老成した人物では、若い社長との交流はできないという側面もあります。関与先にしても多少荒削りでも勢いのある若い人の方が好ましく感じられるかも知れません。
従って多少知識や、経営に対する造詣が浅くても若い職員を訪問させ、関与先との遣り取りを逐一報告してもらい、その若さの足りない分を所長が補うというのも方法です。
また職員の性格として、所長の判断を金科玉条とする人物も困ります。関与先の実情をよく知っているのは実際に接触している職員です。
税務会計の判断にしても、職員からの報告を受けて、指示を出したとして、その要素を見落とした結果、判断も誤るということはあるからです。そうした所長のミスを指摘してくれる人物のほうがよいのです。
同時に関与先の要求を全部、首肯してくるような気の弱い人物も困ります。会計と税務は直結していますから、脱税の要請をどのようの回避するのか、ということです。
反抗的な職員はどうすべきか、という問題もあります。職員が反抗するのは、仕事が正当に評価されないことへの不満があるか、職員の気質からくるものなのか、ということを見極めることが必要です。気質からくるものは致し方ありませんから、体よく辞めてもらうことです。問題は職務遂行能力への評価を巡って職員本人と所長とで意見が違う場合です。
所長が職員に対して何を期待しているのかということは、経営方針や理念を通じて、あらかじめ公表しておかねばなりません。
仕事ができて態度がでかいという職員には手を焼きます。こうした職員が多数出てくるような場合は、所長自身が自らの見識や実務に対する能力を疑ってみる必要があります。所長の見解の不確かさが、職員をイラつかせているということは大いにあることです。指揮命令に的確さを欠く指揮官ほど、兵士を疑心暗鬼にさせるものです。
最近「質問力」という本が、本屋に並んでいました。読んだわけではありませんが、仕事ができる職員にはあまり指示命令を出さず、質問をして気づきを与えるようにするのがよいと思います。

遅刻する職員への対処はどうすべきか、これも簡単で就業規則で服務規律として正すか、あるいは所長が遅刻するのを止めればよいのです。
入所してきた職員をどのように鍛えるか、というのも大きな課題です。日本人は子供のときは乳母日傘で甘やかされるのが普通です。
昔は徒弟制度がありました。そのように甘やかされて育てられた子供をこの徒弟制度が、完膚なきまでに打ち砕いたのです。これが日本の人の鍛え方です。これは徒弟制度に限らず日本陸軍もそうでした。では何を打ち砕いたのか、それは人格です。
お坊さんの悟道といってもいいようなものです。
最近、何で読んだか忘れましたが、犬を躾けるコツは、最初の1週間ぐらいは、餌をやるだけで、一切干渉をしないことだそうです。

しかしそのようにしたところ遊びっぱなしという人物では困ります。また実務にどっぷり漬かるような職員も困ります。夜には自費で簿記学校に通うようでなければなりません。簿記や税法というのは、天然自然に存在するものではなく、人間が作りだしたものです。
 実務で自らが経験する範囲というのは知れていますから、勉強をしないようでは生産性は上がりません。年齢に応じた実務能力が不足しているようでは、そのうち職員本人が困ってきます。
 勿論、生活のために仕事をしているのだから、それでもいいという割り切りもあります。また永年勤めてくれる職員というのは、事務所に愛情を持ってくれていて、お客様にも安心感を与えていると言う側面があるということも大いに理解しなければいけないところです。

経済活動は高度に発達しています。当然簿記や税法もその流れのうちにあるわけで、経験則からだけでは仕事に限界がきます。生産性も上がるはずがありません。
 また人間の能力というのは、本来無限大でなくてはなりません。100歳近くなっても一線で働いている人とういうのは、それだけで周囲に感動を与えるものです。
 60歳(最近は65歳)で停年というのは、困った制度です。ただ猛烈な企業戦士というのは、60歳が限度であろうとも、思います。
税理士に停年はありませんが、しかし実務にどっぷり漬かって80歳まで、というわけには参りません。年齢に伴う付加価値を付けていかねばならないのです。自らをオーソライズすることも、生産性を上げる上での重要なテーマです。

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