遭難

遭難
 平成19年9月3日、産経新聞朝刊社会面に「大阪の税理士 大峰山で遭難」との見出しで沖田健一(50才)が大峰山遭難したとの記事が載った。
 同月1日、私を含め6人の税理士仲間は、洞川(どろがわ)の温泉旅館に投宿。洞川温泉は川沿いに旅館が並び、春から秋口にかけては、大峰山信仰の入山者で賑わう。私らが泊まった旅館は9月の初めとあって、客は少なかった。大峰山は奈良時代に「役の行者(えんのぎょうじゃ)」によって開かれた。「役の行者」は修験者の祖であるといわれている。
 6人は、旅館での食事を終えた8時頃、曽川和男の案内で川下にあるスナックに出向いた。旅館とみやげ物屋が並んだ夜の川沿いの街は、三々五々行き交う人も多く、昭和30年代にタイムスリップしたようである。
そのスナックは昼間に見たときは、しもた屋同然の廃屋のような佇まいであった。マスターは70歳ぐらいの男で、30歳半ばと思われる女がいた。歌がうまい女で、肉付きの良い胸と逞しいお尻、締まった腰、張った顎、その肉体からほとばしる声量は豊かであった。
私の隣に座った沖田も何曲かを歌い、歌の合間に娘の話をした。沖田は歳をくっているわりには、小学生の娘が2人と幼稚園に通う息子が1人いるようであった。話というのは、娘と一緒にマラソンをしているというようなことで、その夜の食事のときも、沖田は同じように娘の話をしていた。
 私は適当に相槌を打ちながら、沖田は娘が親父と同じ趣味を持ってくれたことが嬉しいのであろうと納得をした。
沖田はホノルルでのマラソン大会にも出たことがあるようで、これは沖田が消えてしばらくしてから聞いた話であるが、フルマラソンで2時間45分のレコードを持っていたらしい。
 私は旅館から到着した直後、洞川温泉マップを貰った。こういうマップは観光地ならどこでも置いている。地形図としての正確性には欠けるが、名所旧跡やその地のポイントがデフォルメして描かれているから見易い。
 地図は一瞥をした後、部屋の畳机の上に置いた。沖田は私に次いでそれを見た。しばらくそれを見て、私の方を向き「もし、迷ったら戻ったらええのやろ」といって笑った。その言葉は私の心に引っかかるものがあつた。
 沖田は我々と大峰山には登らず、走るつもりでいたらしい。大峰山とは一般的には、修験場としての山上ケ岳を指す。山上ケ岳は女人禁制であって、海抜は1719mだ。その麓には女人結界門がある。
 その南西の方角に稲村岳という海抜1726mの山がある。稲村岳は女が登ることに支障がない。沖田はこの稲村岳を走るつもりでいるらしかった。
沖田の口から出た先ほどの言葉が、妙に私に残ったのは、山に入って迷うようなことになれば、それは容易に戻れるものではない、という思いが先にあって、沖田は日頃から山路を走ることがあるようで、その辺りのことは十分承知しているはずであるにもかかわらず、そのような言葉が彼の口を付いて出た、ということに奇異を感じたからである。
 私は「山は下手に迷ったら容易には出られへんで」と言おうとして、やめた。それは沖田がその危険性を十分承知した上での発言と理解したからである。
 あくる日も天気はよかった。5時に起き、旅館が用意した膳のあと、私と曽川それに井筒学が山上ケ岳に登ることになった。徳野重一と久保和茂の2人は登らずに帰るといって寝たままであった。
 3人は女人結界門まで、旅館の車で送ってもらうことになっていて、沖田とはその旅館の前で車の中から手を振って別れた。
 旅館を出たのは朝の6時である。女人結界門には山上ケ岳を目指す登山者がたむろしていた。8時半ごろ3人は山頂に着いた。山頂からは稲村岳がくっきりと見えた。
稲村岳を眺めながら、旅館で貰った握り飯をほうばった。曽川と井筒は沖田がひょっとして後から追いついてくるかも知れないと、気にしているようだった。曽川はこの頃になって昨夜の酒が抜けたようであった。
降りはレンゲ辻にルートをとった。私は山上ヶ岳登山は始めてであったが、曽川は詳しかった。レンゲ辻に回ったのは曽川の案内によるものだ。レンゲとは蓮華のことである。大峰山系の山々を蓮の花に見立ててのことであろう。
 急坂のガレ場を降り、川に沿って歩き出したあたりで、死臭がした。私が「死臭がする」というと、2人は一様に鼻をひくひくさせた。多分近くで小動物が死んでいるのであろうと思われた。
旅館に帰り着いたのが12時過ぎである。井筒の話では沖田は我々3人より先に旅館に帰り、そのまま家路に着く予定とのことであった。我々5人は阿倍野から電車とバスを乗り継いで洞川に来たのであるが、沖田だけは車で来ていた。ウグイス色をした日産のマーチだった。
 歳のわりには、かわいい車に乗っているなと思った。
 沖田のマーチは旅館に戻っても置かれたままとなっている。不安はあったがそれはまだ深刻なものではなかった。私と曽川は2時50分のバスに乗ることとし、井筒はしばらく残って沖田を待つという。井筒はこのメンバーのリーダーである。
井筒から電話があって、沖田が帰らないことを警察に届けると言ってきたのは午後5時、私と曽川が近鉄下市口駅で電車に乗った直後である。
私は直接家には帰らず、阿倍野から上本町にある事務所に行くことにした。時計は6時30分を指していた。それから税理士名簿を出し、沖田の住所や電話番号をコピーして、泊まった旅館にファックスを入れた。沖田の妻にも電話をして状況の話をした。
いざとなると沖田のことなどまるで何も分っていないのである。
井筒は大変であったらしい。警察で尋問を受け調書を執られたとのことである。沖田の服装も尋ねられたらしい。私は当日の沖田は鼠色のジャージ上下にリュックを背負い、靴はランニングシューズという格好であつたと記憶しているが、後で話し合ってみるとそれぞれに印象が違うのである。
 その夜10時ごろ、車で曽川を河内長野の駅で乗せ、沖田の自宅を探して行った。沖田の自宅はマンションの上の方の階にあった。沖田の妻はエレベーターの前に出てきて我々の報告を聞くや、その場にしゃがみこんでしまった。
 あくる日の3日、私は家内の運転する車で、沖田の妻を洞川まで送った。捜索隊は警察、地元消防団員、それに地元のボランティア20名ぐらいであったろうか。洞川派出所の前には「天川消防団山岳救助隊」の看板が掲げられた。消防署はヘリコプターも飛ばしてくれた。捜索は3日に渡って続けられて打ち切りとなった。
 9月9日、私はまた車で洞川に行った。小雨がしょぼつく暗い空模様であった。山には登らず傘をさして川沿いを歩いた。洞川は夏でも暑くはない。洞川に居た9月の1日からの3日間は蚊に刺されることはなかった。蚊がいないのである。
暑くないとはいえ、沖田が消えてから7日が経過していた。沖田が既に死んでいるとしたらガスで充満した体がそろそろ腐りだし、異臭を放つころである。私は鼻に神経を集中した。2日正午近くに山を降りたあたりで嗅いだあの臭いが、この事故を暗示していたように思えた。イタチやテンそれに狸など肉食の小動物が遺体を餌食にするだろう。蛆虫も湧いているに違いない。遺体は小動物に喰いちぎられ、曳かれて八方に散らばる。広葉樹の葉が落ちて沖田の骨を覆う。やがて沖田が死んだことは世間の記憶から消える。
 清冽な川の流れを見ながら、沖田の魂はどこに行ったのだろうとふと思った。純粋な男であったから地獄界、餓鬼界には落ちないであろう。しかし天上界から上に生まれ変わるには役不足に思えた。再度人間界に生まれるのであれば、もうどこかで生まれているのかも知れない。
9月23日と10月7日は母公堂に車を止めて稲村岳に登り、10月4日は虻のトンネル付近から観音峰を歩いた。稲村岳には両日とも多くの登山客に出会った。10月4日はときおり雨がぱらつくような天気であったが観音峰では何人かとすれ違った。
 大峰山系は修験場であり、険しい山のように思っていたが歩いてみるとそうでもないことが分かった。路はいずれも一本道で、枝道はない。これは山上ケ岳も同じことであった。いや険しくないというというより、険しいが故に路が一本しかないといった方が正確であろうか。
稲村岳は麓の洞川温泉にある登り口「母公堂」からおよそ6キロメートルである。これを3時間近くかけて登るといえば、どのような勾配の路かはおよその想像できよう。2、3人なら優に並んで歩けるだけの道幅があるところも多い。険しく危険なところは数箇所あるが、それは手前で明らかに危険と判るから滑落などしない。また滑落しそうな処は捜索隊が入っている。敢えて危険というなら、レンゲ辻から山上ヶ岳へのコースであろうか。危険といっても、注意深く歩く段には問題がない、ただ断崖絶壁が多いということだ。
 迷うようなところは一つもないのである。大阪の和泉葛城山、金剛山なんかのほうが、登るルートにもよるが、迷い路がある。
観音峰は標高1347mと低く、洞川温泉街が既に標高800mから900mに位置するあたりにあるから、麓からは低い山である。
観音峰は虻(あぶ)のトンネルから展望台を経て観音平にルートを取ると北側に洞川の温泉街が見える場所に出る。この辺りから洞川温泉に下ろうとすれば、多少は迷うかも知れないが、出てこられないようなことも、落ちて怪我をするようなこともあるまい。この山面一帯は植林がされている。植林がされるというのは、人手が容易に入り危険がない証拠でもある。
 10月25日、関与先でお祭りが執り行われた。不動明王をお祭りしている。某神社から神官が2人来ていた。その大祭の後、私はその神職に尋ねた。沖田の居なくなった経緯を手短に話し、どういうことでしょうか、というのが質問の趣旨である。神官の答えはあっさりしたものであった。「ああ、その人は生きていますよ」というのである。
 全てが氷解したように思えた。沖田は失踪をしたのである。あれは遭難ではない。そう考えた方がすべての辻褄があう。
 あれだけ鍛え上げ引き締まった、沖田があの山で遭難するはずがない。9月1日の夜、風呂での沖田の体躯を思い出していた。50歳とはいえ、脂肪の殆どない逞しい四肢をしていた。短時間山を駆けて、先に帰ると言っていたのに、リュックを背負っていた。服装の印象はそれぞれ違っていたが、リュックを背負っていたことについては、誰もが同意見であった。走るのならリュックは旅館に置くか、車に積んでおけばすむ話ではないか。
 それに子供のことばかり話をしていた。迷ったら戻ったらええのやろ、という発言も変である。これも後で聞いたことであるが、警察の調べたところでは沖田が旅館に残したマーチは既に車検が切れていたらしい。税理士が車検切れの車に乗るだろうかというのが警察の疑念のようであった。沖田の遭難は警察も疑問視しているのである。
 我々3人を女人結界まで送った旅館の従業員は、その帰り道で走っている沖田を「ごろごろ水」という湧水のあたりで見たという。
 これは後からの私の想像である。この湧水からしばらく上手に行くと、川筋が二手に分かれている。そこを左手にとって毛又谷のほうに入れば、川上村に至る。距離にして20キロもあるまい。彼の足なら川上村まで走破するのは簡単だろう。川上村から熊野市に出るのも、吉野あたりに出るのもバスがある。熊野市からなら名古屋や東京は遠い距離ではない。 
 9月の3日と4日、それに5日は地元のボランティアが、山上ケ岳、稲村岳それに観音峰をくまなく歩いてくれている。また当日は登山者も多くいたのである。当日の沖田はジャージに運動靴姿であった。この当りの山を歩くのは山伏姿か登山者の格好をしているのが一般である。ジャージに運動靴なら目立つ。稲村小屋の主は見かけていないといったらしい。
女人結界門の手前に、モータープールを兼ねた食堂がある。乗用車ならおよそ100台は止められるであろう。この食堂の経営者も見ていないという。いずれも警察から聞いた話である。
9日、私は小一時間このモータープールにも車を止めた。ちょっと止めただけなのに、集金にきたところから考えると、往来する人間はきちっと観察しているのである。食堂の経営者の話は信頼に足る。沖田は結界門をくぐってはいない。毛又谷への入り口はこのモータープールの川下だ。
沖田は早く帰るといっていたのであるから、そう遠くへは走るまい。怪我をしたのであれば声を上げれば助けはいくらでも呼べる。天候もよかった。どう考えても遭難ではない。
 実はひそかに期待していたことがあった。10月25日、不動明王の大祭の日、神官は「ああ、その人は生きていますよ」との後に続けて「あと1月もすれば分かりますよ」と言ったのだ。私はその「1月」に期待をした。しかし今のところは沙汰無しである。
沖田の妻を旅館に案内したとき、廊下窓越しに夫の車を見た彼女の言葉が印象として残る。沖田の着替えを抱えて、彼女はこう言ったのである。
「下の子がねこの車が大好きで、上の窓から夕方駐車場に止まったこの車を見て「お父さんが帰ってきた」といって、はしゃぐんですよ」