遭難もどき
3月21日は春分の日、京都にてお寺参りもそこそこに、嵐山は渡月橋から山に登ることとした。時計をみると午後12時20分。小径には山の案内図があり、それをたよりに烏ガ岳を目指した。
もちろん初めて入る山ではあつたが、深く入るつもりはなく、コンパスや地図の準備がないことにそれほどの心配は持たなかった。
天気晴朗。秀麗な山の尾根。それを分けて径が続く。無風。吹きかけた木立の新芽は葉というには程遠く、さえぎるもののない午後のやわらかい日差しが体にそそぐ。ジャンパーは脱いで手に持った。右手眼下には京都の街並みが広がっている。目指した烏ガ゛岳は登り初めて1時間程で着いた。そこに至るまでは初老の夫婦らしき二人連れに合ったことと、鹿が目の前を走って藪に消えた以外は、誰にも合うことはなかった。気分は最高によかった。
本来なら来た径を返るべきところであるが、物足りなさを感じ、もう少し深く山に入ろうと歩き出した。
20分も歩いただろうか、十字路があった。多少迷いもあったがそれを右手に取った。私の想像ではそれは京都の街並みのどこかに出る径となるはずのものであった。
近くでカラスが鳴いた。ギャアギャアといやな鳴き方であった。山の径はゆるやかに下降しつつしばらく続き、そこで消えた。いや消えたというのはその夜風呂に入ってからの想いで、そのときは径はたしかにあった。あったからさらに先に進んだのである。小さな渓の流れがあり、しばらくそれに沿って歩を進めたが、渓はやがて深くなり、それを避けるため山を横切るようにその斜面を歩いた。
烏ガ岳からかれこれ1時間も歩いただろうか、引き返すに引き返せないようなところまで来ていた。そこに至ってやっと事の重大さに気がついた。
目前の山肌は険しくなりその傾斜は70度程もあろうか。ジャンパーをもう一度着た。鞄は口が開いていないことを確認して袈裟懸けにした。万歩計は何度か滑った拍子に落としたのであろう、なくなっている。
ペットボトルの水は底を尽いた。木々が茂り窪みもあるから、歩くことにそれほどの恐怖感はなかった。何度となく滑り、そのつど木と地肌を掴んだ。両手からは血が滲んできた。
喉が渇く。仕方がない、もう一度尾根に出よう。決心をして垂直に斜面を登りだした。すべりすべり50メートルもよじ登っただろうか。ふと下を眺めると、川が流れ、その向う岸にトロッコ列車の軌道が走っているではないか。保津峡だ。
登るのをやめて、降ることとした。よたよたと降りた。道があると考えたのである。しかも舗装された道に出ると想像した。
やっとの思いで川辺につくと想像したような道はない。川に沿って一本の山径があるだけ。人はいない、人家もない。しかし径に出たことは間違いがない。歩む足は重い。重いだけではなく動けなくなるようなだるさがある。さて川に沿って上がるか下るか。上流に陸橋が見えた。
それに向かってもつれるように歩いた。しかしその陸橋の下に来るととてもではないが、近づけるような高さではない。
しかたなく、また川上に向けて山道を歩くことした。今度はトロッコ列車の陸橋が見えた。この陸橋には簡単に近づけた。多少の不安があった。トロッコ列車はそんなにひんぱんに通らないではあろう。逡巡はしたが、その陸橋を渡る決心をするまで、時間がかからなかった。
途中、保線夫さん二人に出会い、多少の小言は頂戴した。最近も山で迷って死人が出たとのことである。その間、人を満載したトロッコ列車が軌道を通過した。そこから20分ぐらいでトンネルがあり、それを抜けると駅があることを教えてもらった。お礼の挨拶をして再び歩き出した。現金なもので足取りは軽くなった。
駅に上がり駅長さんに詫びを入れ、観光の人ごみに紛れ込んだ。ホッとした。時計をみると山に入ってから、およそ4時間が経過している。嵯峨野は何事もなかったかのように若い観光客であふれていた。