口のマネジメント
お坊さんの修行も口が大変であるらしい。食べるもの、呼吸、言葉、これらが全て修行の対象である。
私などはいつも言葉で失敗している。親鸞聖人は歎異抄において、人一人を殺そうとして殺せるものではないが、殺そうとせずに大勢を殺してしまうことがある、と述べている。言葉もそうである。
仕事柄、文書で回答することも多くある。文書というのは、内容に普遍性があって緻密な説明には向いている。しかし個別具体的な内容を文書化するのは不適切となる場合がある。
同じ話がAさんには正しくても、Bさんには間違いとなることがある。「人を見て法を説け」などは、まさしくこのことを指しているのだろう。
文書は考え考えしながら書くので、攻撃を意図する場合を除き、相手を傷つけるようなことにはならないと思う。それに書いてすぐに発信するということは少ない。しばらく手元において、読み直しをする。
また文書にすれば、問題の全面を捉えて表現することができる。つまり細大を漏らさずに表現が可能であるということだ。
では文書化されるものが、すべて微に入り細を穿ったものがよいかというと、そうでもない。いわゆる「箴言」などは、短くて人の心を打つものである。それは、赤ちゃん言葉が詩的に聞こえるのに似て、短い文書は読み手(あるいは聞き手)に解釈と想像の自由を許すからである。
論文を書く場合は別として、こちらの意図通りに、相手の想像力を掻き立てるような表現こそ、言葉としてはすばらしいのかも知れない。
また、時局に関する講演を聴いたとしても、元々持っている時局の認識はそれぞれだからその人なりの聞き方で学習をすることになり、まったく同じ理解にはならないだろう。
思想は信条となって、行動の上に顕現しなければ意味がない。環境保護を叫びながら、自らは冷暖房の効いた家に住み、高級車を乗り回しているようでは、単なる偽善家である。
従って相手の言葉を正しく理解するには、その相手の日頃の行動、置かれている状態を観察して、その上にその発した言葉を重ねて観察しなければ、真意は理解できないだろう。
議論を重ね、言葉の応酬をすることで相手に理解され、あるいは相手を理解をするということは至難の技である。負けた方から恨みを買うだけだろう。
直接相手に対してのみ言葉を発する場合はともかく、ギャラリーが大勢いて、そのギャラリーにアピールをしたい、というようなときに発する言葉については尚更にそうである。
政治家やマスコミ人の発言は、多分にこのような要素が強いと思われる。従って政治家が言っていることは、相当に注意して聞く必要がある。
読んではいないが「マイケル・サンデル」教授の「正義」についての本が、本屋さんに行けば山積みにされている。よく売れているのであろう。私はTVを殆ど見ない。正月に投宿したホテルで、その授業風景が放映されていた。うつらうつらしながら、見た。
教授の正義というのは結局「ノーブレス・オブリージュ」のことではないかと、勝手に得心したものである。
すこしTVを見ただけで、独断するのはよくないが、これなどは教授が「ノーブレス・オブリージュ」と一言で済ませば、有名になることも、本が売れることもない。
この教授が受けるのは、まず「ノーブレス・オブリージュ」という結論があって、そこに到る過程を学生と一緒に言葉を重ねて創作していくところにあるのではないか。人気の秘密は意外に簡単な原理によっているのかも知れない。
団塊の世代という言葉は好きではないが、確かにこの世代には一つの特長があると思う。団塊というのは土塊の固まりというような意味だ。名づけ親の堺屋太一を恨む。
それは敗戦直後に生まれたものだから、頭は新しい教育を受けたものの、首から下は土着の日本人というところだ。その矛盾が埋められずに不安定なのが、私らの世代なのである。臆病なクセに、命に関係のないところでは徒党を組み、竹棒を持って暴れたりする。
本当の意味での徳とか勇気はない世代なのだ。それが言葉に出る。要するに育ちが悪い。
今年は人と議論をしないようにしょう。話は聞くか、聞いてもらうか。どちらかにする。今更人徳など積めんやろしなあ。
今回はいささか自戒の念を込めて書いたつもりである。