小沢幹事長への鎮魂歌
うまく逃げおおせたのか。田中角栄を父とし金丸信はよき理解者であった。2人をよく研究した成果だ。これも出藍の誉れというべきだろう。
しかしまだ分らんぞ。「天網恢恢疎にして漏らさず」というからな。本日(2月13日(土))の新聞によると、市民団体が東京第五検察審査会に不服審査の申立てを行った。私は大方の市民団体は白眼視しているが、今回ばかりはエールを送ろうと思う。
野の白百合には一瞥も呉れず、権力と金の亡者となり、この国の品位を汚し、経綸を垂れることなく、蛇蝎のごときだ。
法律は無知を救わない。知悉し、間隙を突き、正義は必ずしも勝たず、アホは確実に負けるということを天下に公知した。
権力にものをいわせて不正蓄財をした。最後は私が愛してやまないこの国まで売ろうとした。
起訴されるかも知れないとの噂が流れていた2月2日、アメリカのキャンベル国務次官補に会った。
そのあくる日の朝刊(朝日と毎日)に検察が起訴を諦めたと報道した。見返りはあったのか。一説ではゆうちょ銀行の180兆円でアメリカ国債を買わされることになったということだが。
あるいは、弱みに付込んで、幹事長と中国の関係にクサビを打ち込まれたのか。なら、中国からの信頼は失ったことになる。
しかしもうそろそろ終わりだぞ。終章が近づいている。居座ったことで鳩山政権はあひる政権になった。飛ぶに飛べず歩くのも下手糞。浮いているのが関の山ってことだ。
ついでに書けば、鳩山首相は中国から見ればサギでアメリカからすればチキン(臆病者)とある新聞に出ていた。政権はせいぜいもって3月いっぱい。まあ幹事長も嫌な予感がしていることだろう。全ては身から出た錆。
逮捕されれば民主党政権もここしばらくは命脈を保ち得ただろうに、やおろずの神々の粋な計らいだ。ゼネコンも距離を置くだろう。あぶなくて暫く近づけない。
したがって養う理由がない。金の切れ目が縁の切れ目。金力で議員を釣るにも先が見えた。
今日は親鸞聖人の話をしよう。歎異鈔はいいぞ。読むなら暁烏敏(あけがらすはや)のがいい。それに蓮如上人の「御文章」も合わせて読めばなおいい。言ってみれば、この二つは浄土系仏教の実践課題を書いておるのだ。
「歎異抄の謎」という本を最近五木寛之が書いた。パラパラめくってみたが、あれは陳腐だ。しかし五木寛之の名前があるから売れるだろう。
例えば歎異鈔本文中『浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大悲大慈悲心をもって、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり』を五木寛之は『他力の慈悲というのは、すべての人は念仏によってまず浄土に生まれ、そこで仏となる。その結果、新たな力を得て人々を救うことができるという考え方である』と意訳している。
ところが暁烏敏の解釈は『浄土の慈悲というは、いそぎ佛になって、即ち完全円満なる身になって、それから済度しょうというのです。何はさておき自分が佛にならなければならぬ。自分があわれな人の前に行けば、その人の心が明るくなるようなものにならねばならぬのである』と、なっている。
暁烏敏の方が明らかに正しい。死んでから自身は仮令浄土に行っても、それでは人の済度はできない。
なんせ幹事長はキリスト教を排他的で独善的といったことがあるからなあ。本物の仏教徒なら他宗を誹謗したりはしない。
あの一言でキリスト教徒でも仏教徒でもないことが分かった。しかし次のフレーズぐらいは聞いたことがあるだろう「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。
まだ救いがある。ここでの善人は単なる暗喩だ、悪人にかかる枕ぐらいに理解しろ。親鸞聖人の眼中に善人はない。
極悪非道、煩悩熾盛であっても構わん。内にある悪を自覚し、慟哭の中でお念仏を唱えることだ。救われたと思って安心したら、善人に安住することになるから救われない。それがお聖人の流儀なのだよ。
お念仏の「念」はな、思うことでも,想うことでも、考えることでもない。阿弥陀如来と不二一体となって、命懸けで南無阿弥陀仏を念ずることだ。
なんせこの世は悪人だらけ。かく言う私もそう。お互い様。親近感さえ持っているぞ。これまでは嫌ってきた。今でも好きではない。同類だから嫌ったのかも知れない。
心の内の尤も賤しむべきものが幹事長だったということだ。
しかしお聖人からすれば幹事長の犯した悪なんぞ大したものではない。無量寿経にある弥陀の48願をご存知か。18番目の願(至心信楽願(ししんしんぎょうのがん))にあるのが浄土往生の道だ。
五逆罪は犯していないだろう。いやもっと直截的に言えば阿羅漢さえ傷つけていなければ救われる。
暁烏敏の解釈では先ほど紹介した『浄土の慈悲というは、いそぎ佛になって、即ち完全円満なる身になって』までが18番で、『何はさておき自分が佛にならなければならぬ。自分があわれな人の前に行けば、その人の心が明るくなるようなものにならねばならぬのである』が19番目の願(至心発願願(ししんほつがんのがん))ということだろう。
従って浄土というのは、死んでから往くところではない。生きたまま「今」即往くのだ。まあ往くというより双方向の通い遭いだ。しかし浄土への信がぐらついたのでは歎異鈔は解らん。
人は過去・現在・未来の時間軸で生きている。しかしここでの「現在」というのが曲者で、時間軸の延長上にある「今」のことではない。輪廻を断ち切った「今」だ。六道界で輪廻転生を繰り返すのは、魂のレベルが低いからだ。念仏力が足りないからだとでも言おう。
ところでかく言う私も、あまり浄土に往きたいと思ったことはない。まあ次の世も出来得ることなら人間界がいいと思っている口だ。
幹事長は悪相だ。田中角栄や、金丸信を師と仰いだところに全てが始まったのだ。因縁さ。悪因悪果ということだな。そこで提案する。岩手に帰って一心不乱に念仏を唱えながら路傍の花と暮したらどうか。
本質的なところで幹事長を許し救うのは、国民で検察でもないぞ。幹事長自身だ。もっと云えば自身の内にある仏性とでもいっておこう。それもまあ懺悔するパワー次第だ。
民主党も落ち目です。外国人参政権の問題も杞憂におわりそうです。今回をもってしばらく政治をぼやくのは止めにしたいと考えています。