七つの社会的罪
マハトマ・ガンジー師の七つの社会的罪について、知る機会を得ました。
師はヒンズー教の信徒でした。偉大な思想家であると同時に偉大な政治家でもありました。人間の根源を凝視しつつ、国民の教化育成、国を統治といったようのことを同時に考え,懊悩したのに違いありません。「七つの社会的罪」はそのような背景の元に胚胎したものあろうと思われます。
日本の衆議院選挙は、近いうちに行われます。
自民党は勿論、民主党にも本当の意味で日本を憂え、国民に対してメッセージを発することができる議員さんはいらっしゃるのでしょうか。最近の若い国会議員さんの中には、日本とアメリカが戦争をしたことを知らない方もいらっしゃるようです。
日本と日本人を知悉し、その歴史に思いを致し、人間の根源を正しく理解して、深みのある政治家が出て欲しい、国民の側にもまたそのような政治家を選出するセンスを持って欲しい、とつくづく思います。
1理念なき政治 2労働なき富 3良心なき快楽 4人格なき学識
5道徳なき商業 6人間性なき科学 7献身なき信仰
「七つの社会的罪」でいうところの罪(Sins)は原罪(=人間が本質的に持っている宗教的・道徳的罪)という意味でしょうから、解決は困難なものです。
人間は大脳が発達したお陰で、誇大妄想に走り、夜郎自大になります。
何かを通じて自らを律していく他に方法はありません。その何かが仮に仏教であるとして、その教えと大脳のはざ間に絶えず緊張関係がある、あるいは自ら(本来の自分=禅宗でいうところの本来の面目=衆生本来仏なりの仏)が自ら(自分から本来の自分を差し引きしたもの)を絶えず監視する、をということが個々の罪(Sin)を減少させていく上で正しい生き方ということになります。
自らを2人に分けるというのは面白い手法です。例えば「同行二人」とは正しくそうした考え方です。
(「解脱」という目的をわきまえた人が、静かな場所に行ってなすべきことは以下のとおりである。
何事にもすぐれ、しっかりして、まっすぐでしなやかで、人の言葉をよく聞き、柔和で、高慢でない人になるように。
足ることを知り、摂食し、手が掛からず、雑務少なく、簡素に暮らし、諸々の感覚器官が落ち着いていて、賢明で裏表がなく、在家に執着しないように。
智慧ある識者達が批判するようなどんな小さな過ちも犯さないように。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ。安楽であれ。平安であれ。
どんな生きものの生類であっても、おびえているものも、強いものも、ことごとく、長いものも、大きいものも、中ぐらいのものも、短いものも、極めて小さいものも、極大のものも、見られるものも、見られないものも、遠くに住んでいるものも、また近くにいるものも、既に生まれたものも、今生まれようとしているものも、一切の生きとし生けるものは、幸福であれ。
人を欺いてはならない。どこに行ってもどんな人も軽んじてはならない。
怒りの思いをいだいて、互いに他人に苦しみを与えようと望んではならない。
母が命の限りおのが子を護るように、そのように、一切の生きとし生けるものに対して、無量の慈しみの心を起こすべし。
また世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。上にも下にも横にも、そしてまたわけへだてなく、うらみなく、敵意なく、立っていても、歩んでいても、座っていても、横になっていても、眠っていない限りは、この慈しみの心をしっかりと持て。これが梵天(崇高なもの)の生き方であるといわれています。)
翻訳文ですからあまり切れの良い文章とは言えませんが、以上は「慈経」といわれるものです。これは小乗仏教(現在は「上座部仏教」といわれることが多いようである)に伝えられていて、歴史的にはお釈迦様の肉声と思ってさしつかえのないもののようです。また慈経はすぐれて愛を説いております。しかも実に具体的に説いています。
「慈教」に示されたような、往きとし生きるもの一切に対する慈愛の念なくして、この七つの社会的罪を深く理解し共感することは不可能ではないでしょうか。
仏教は三世で考えます。三世とは、「過去世」「現世」「来世」です。そのサイクルで考えますから、例えば街を歩いている人が、突然車に3キロメートルほど引き摺られ、殺されたとしても、その轢き逃げ犯人だけが一方的に糾弾されることはありません。殺された方にも過去世あるいはこれまでの生き様の中にきっとそのような因縁があったと考えます。
殺した方も過去世の因縁によるのであり、更に来世に向けて悪縁を積んだということになります。これが仏教の人間理解です。
法の支配を原則とする、現在の社会規範とは明らかに違います。
先ほど掲げた慈経にも最初に「解脱」という言葉が出てきますが、この世をよりよく生きて、彼岸(浄土)に生まれ変わるというのが、仏教の本筋です。
また仏教は、先に金持ちや権力者の慈悲心を涵養してこれを救済し、次にその慈悲心でもって衆生を済度するという構造を持っています。他の宗教と比べて仏教寺院がやたらと金無垢でピカピカしているのはそういうことがバックにあるからだと思いませんか。
ところが現在社会は法の下、不平等を根底から無くそうと躍起になります。あるいは最近ですと、市場経済主義の掛け声のもと、経済的合理性を追求すれば、社会は上手く回るというようなアホらしい考えに支配されています。
まあアメリカが経済破綻を起こしましたから、このような傾向には歯止めが掛かるかも知れません。アメリカが破綻したことで、市場経済主義というような考えはアメリカの国家権力とその経済支配者が自らを利するための方便として広めたことが白日の下に晒されました。喜ばしいですことです。
社会的病理現象である鬱などの一つの大きな原因は、こうした社会的背景に由来しているのです。
いずれにせよヒンズー教も仏教もインドで生まれたものですから、思想的原点には相似性があるのだろうと思います。
話は飛躍しますが、神道に仏教という思想的論理性を与えたのは聖徳太子です。神道は「明るく」「直く」「清く」ということですから、そこには国家を束ねるような論理性はないわけで、政治家としての聖徳太子は神道だけでは国を治めることが不可能と考えたということです。
仏教はいわば信仰の対象であると同時に、政治の道具でもあったわけです。日本古来の神道に仏教を加えた聖徳太子の慧眼には感服いたします。
仏教は2500年前北インドに生まれたものです。しかもそれは突然生まれたものではなく、永い思索遍歴のもとに彼の地で誕生し、お釈迦様が集大成しました。ヒンズー教もインドが生んだ思想であり、先にも書きましたが仏教とヒンズー教は同根だと思います。それはまたマハトマ・ガンジー師の背景にある風景でもあったのでしょね。
日本が良い国になって欲しいですね。