滝畑ダム
本日午後滝畑ダムに行った。正確には滝畑ダムに流れ込む川筋に行ったと言うべきか。子供らが小さかった頃よく行ったところである。秋も終わりに近く行楽客は閑散としているものの、それでもテントを張り、あるいは子供づれで焚き火を囲んでの食事風景が目立つ。
木々は色づき、落ち葉が山道を染めひんやりとした山風が、ゆっくりとした歩みに心地よい。流れる水は水量が多くて透き通っている。最近それなりに雨が降ったのであろうか。しかし流れを覗くと魚が居ないのである。
水量やその清冽さから視て川ムツや、アマゴらが泳いでいても不思議ではないないにも拘わらずにである。
夏場には大勢の人で賑わうから、多分育つ余裕がなく、育っても採り尽くされてしまうのであろう。そう思って流れに目をやると、人の夏に出すごミが川筋の石ころの下に潜んでいて、
それが今時分水に染み出し流れを汚染しているようにも見える。
かなり注意して視ても一匹もいないのである。妻にもそれが不思議に思えるらしく「魚がいないね」という。
それでも釣り糸を垂れている御仁がいる。本当に釣れるかどうか見ていたいような気がしないでもない。だが多分一匹も釣れないであろう。
私は人の努力のあわれを思った。世の中には無駄な努力をされている方が結構いらっしゃる。翻って自らはどうか。人様から視ればやはり危うい、殆ど無駄に等しい努力をしているのではないか。回り道をしているのではないか。
だからといってこの釣り人に注意を与えるのは野暮というものであろう。考えれば人生そのものが無駄の積算と言えなくもない。人は生きることそれ自体が目標のようなところがある。これからはあくびをする折も、命がけでやるか。
ひょっとすればこの釣り人の垂れる糸に、神様のお情けで天然のおおきなアマゴが喰らいつくかも知れない。さきほど見ていたいと思ったのは多分そのことへの期待であろうか。