八重山の人頭税

人頭税は八重山諸島にが存在した税制である。これは寛永14年(1637年)に始まり明治35年(1902年)までの延べ266年間続いた。
 そもそも琉球王国は、中国貿易並びに南方貿易によって巨利を得ていたが、これに横恋慕したのが薩摩の島津氏である。島津氏は、この貿易の巨利を自己の手中に奪取しょうとして、時の権力者である豊臣秀吉や徳川家康に接近し、虎視眈々とその機会を狙った。
 島津氏は徳川家康に謁見し、近年における琉球の「無礼の数々」をあげてその征討を嘆願、家康がこれを許可したので、琉球征伐に乗り出した。長14年(1609年)1500人の5カ月分の兵糧、鉄砲734丁、弓117張などに、精鋭3000人を軍艦100隻に分乗して、首里城に迫った。島津氏は圧倒的戦力を行使して殆ど戦わずこれを鎮圧したのである。尚寧王は城を出て和を乞い、戦いは琉球の無条件降伏となって終結した。

 こうして島津氏は完全に琉球王国を支配下に置いたのである。人頭税はこのような背景の下に施行され、八重山諸島の住民を3世紀近くに渡って苦しめることになる。
 人頭税は苛烈であった。それは役人を除く、15歳から50歳までの八重山住民に課されたのだ。病人も不具者も疾病者も老人も幼児も、すべて税の対象とされた。しかも上納品は極度に手数や労力を強いるものばかりであった。
 農民などは本税のほかに,御用布、船具、さらに48種の上目税(物品税)まで納めたという。それだけではなく、1月のうちに住民1人につき20日の公役もあった。その苦しみは、堕胎や自殺や脱村や嬰児埋殺となってあらわれた。
 このような話が残っている。ある家では人頭税のために嬰児を埋殺した。この家ではこれまで4人埋殺したが今度は5人目である。生まれたばかりの嬰児を久葉の葉に包んで裏庭に穴を掘り、アガザイ(手水鉢や芋洗いにも用いられた貝で大小様々あり、縁の凹凸が激しく鋸歯状になっているもの)で押さえ、足で踏んで処置した。
 ところが3日たっても嬰児は死にきれず、小さい声で泣いているのが聞こえる。妻は涙で目を腫らし狂乱せんばかりとなった。夫は「これは皆、人頭税のせいだ。私が始末するから安心しろ」といって、大きな鍋に湯を沸かし、熱湯を死にきれず泣いているわが子にかけて始末したのである。
 人頭税の性格からすれば、村における最大の敵は脱村者、不具疾病者、妊婦、産褥中の及び多子養育中の婦人など。従って村の人口定額人頭税に向って邁進できる少数精鋭主義の傾向に向わざるを得なくなった。

この話は示唆に富んでいる。
琉球においては周辺の危機に対する認識がなく、武力が貧弱でかつ戦う意志もなかったということだ。今の日本はどうだろう。平和であることを金科玉条とし、国家は日本人のものだけではなく、命だけが大事だと思う人が首相を務めている。しかも日米安保条約の意味さえ理解していないらしい。辺野古(へのこ=陰茎)はぶらぶらするばかり。中国は虎視眈々と海軍力を強化している。
もう1つは、島津氏の琉球政策は植民地に対してのそれであったということだ。もし日本が例えば中国の支配下に置かれたとしょう。中国は過去における日本の支配を口実としてチベット以上の弾圧を加えてくることは間違いがない。
日本人が麻薬を所持していただけで死刑にするお国柄なのだ。首相は危機に対する想像力も貧困である。
それに、八重山の民があまりにも従順であったということだ。果たして今の日本の状況はどうか。トヨタは日本を代表する企業である。そのトヨタがアメリカで不祥事を起こした。その責任はトヨタにあるにせよ。わが政府はこれを見殺しにした。私がトヨタの社長なら、この一件を持って本社所在地をベトナム当りに移すかも知れない。
今の日本人は押並べて大人しい。大人しいだけでなく川原の砂の一ようではないか。一昔前なら鳩山首相、小沢幹事長はテロの刃に倒れても不思議ではない。

(人頭税の紹介に当っては大浜信賢著 株式会社三一書房発行の「八重山の人頭税」(1971年発行を抜粋し、参考としました)

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