忠犬鯉太郎
あっしが日本橋の動物屋からアルジの家に買われてきたのは、今から4年前の8月の終わり頃だしてな。何でもアルジは高校野球で賭けして、ちょっとした小金を得たようで、それでまあ買われたらしい。あっしの値段は6万円でしたわ。
その節、動物屋の大将があっしの血統書を、あとで送るとアルジに言ってたのを小耳に挟んだですがね、その後4年たってまだそれが届いてないところを観ると、所詮はいい加減な生まれだったんでしょうな。父親だって誰だかわかったもんじゃありませんぜ、まったく。いいえね、こういうことをいうのもあっしにも心当たりがありましてな。
アルジの家にきた翌年の夏のことですがね、ご近所にあっしと同じ柴犬の花ちゃんがおりまんねんけど、この話はまあ嬉し恥づかしの話で、思い出しただけで赤面しますわ、まあ、あっしが赤面しても皆さんにはわかりませんわな。なんせあっしときた日にゃ顔じゅう毛だらけですさかい。
実はですな、このご近所の花ちゃんのアルジが、あっしを借りに来ましてな、まあここまで言えばもうご理解願えまんな。
花ちゃんのことでっけど、あっしはなんせ初めてでっしゃろ、下手糞でしてな、それでその花ちゃんのアルジは心配になったみたいで、別の宅からやはり柴犬のおっさんを借りましてナ、花ちゃんにもう一度くっつけたんやがな。もうむちゃくちゃですわ。花ちゃんも花ちゃんですわナ、あっしに対する義理やとか、愛やとかはおまへんナ。もっともあっしもそうですけどね。
その後10月10日で花ちゃんにも子が6匹も授かりましたそうで、え?どっちの子やて!知りまへん知りまへん、だいたいあっしら犬族ではそんなもんどっちゃでもよろしいねん。まあキョウ日は皆さんやてそうなりつつあるやおまへんか。あっしらとはあんまり変わらへんがな。ちゃいまっか。そんなアホなこと聞きなはんな。
まあ、そのうち花ちゃんから生まれた子らも方々に貰われたみたいでんねん。そのうちの1匹は近くの横井さんの家で幸せにしてますわ。たまに散歩で会いますのんや。でもおとうちゃんと名乗っていいもんやら悪いもんやら、あっしにも自信おませんしナ。あとの5匹は知りまへん。会うてみたい気もしまんのやが、今頃生きてんのやら死んでんのやら、これは犬の宿命だす。
その点あっしらは不幸だんな。こういうの「重なって出来た不幸」て言いまんのやろ、ええ、そんな表現あらへん?、それも言うなら「不幸は重なる」やて?!。硬いこと言なはんな、犬の世界ではこういうの「重なって出来た不幸」ちゅいまんねん。
え?何?、犬も10月10日かて?、まあよろしいがな。
ほな生い立ちからあっしの話をきいてもらいまひょか。あっしが生まれたのは、平成10年の6月でしてん、1週間ほどですわ、母親と一緒やったのは。目も見えへんうちに東大阪市の犬のオークションで1万円で日本橋に売られましてナ。アルジに買われれるまではずーと檻の中でくらしてましたんや、その檻いいましても1坪もおまへんやろ、最初あっしの兄弟姉妹は5匹だしたんやが、日本橋に来たのはその内の男兄弟ばっかり3匹だして、そのうち1匹はすぐに死にましたわ。
まああっしらには犬権なんておまへんよってにな。考えてみなはれ、人様の寿命は70年からですが、犬てえのはせいぜい平均して5年でっせ。
それにあっしらは1回に平均して5~8匹生まれますわ、人様は普通生むのは1人でっしゃろ。そやさかい大事にされ方がちゃいます。
なんせ日本橋では狭い檻のなかで子猫もいてましたもんやさかい、あっしも命は諦めかけてましたんやけど、アルジに買われたお陰だすわ,ホンマに。
あっしに鯉太郎と名づけたのもアルジですわ、この家に来た当初はゴールデンの禮五郎君という犬もおりましてんで。
この禮五郎君は気立ての良い犬でしたで、なんせあっしは生まれて3月の頃でんがな、右も左も分からんころですやろ、もっとも今でもミギとヒダリ分かりまへんけどな。柴はやんちゃで通ってまんねん。禮五郎君にじゃれてじゃれて狩の真似事してよう遊んでもらいました。
禮五郎君、まあ嫌がりもせんと耐えてくれたもんやと今思い出しても懐かしいですわ。それにあっしに礼儀を教えてくれたのはこの禮五郎君でんねん。おとなしい犬だしてナ。人様には一切吼えません。あっしもそれが犬の仁義やと思いまして、今でも人様には吼えません。
でもアルジはそれが不満みたいですねん。アルジはその点は勝手でっせ。つまりでんな、アルジの好きな人には吼えて欲しくないくせして、嫌いな人が来たら吼えて欲しいらしい。そんなこと出来しまへん。
そらアルジ自身やて嫌いな奴がきたら嫌な顔し、好きな人がきたら好きな顔するんやったら、あっしかてアルジから餌もろうている身やさかい、そのとおり真似しまっせ。忠犬鯉太郎ぶりを発揮しまっせ。
ところがうちのアルジは誰が来てもニコニコしてまんねん。大きな声では言うたらあかんことやがアルジは人格が相当に複雑だっせ。おっとっとつい口が滑ってもうた。
それにでんな、アルジはあっしの笑顔が見たいと言いまんねんナ。ムチャな相談でっせ。でもそれでアルジが喜ぶんやったらとおもいましてな、一所懸命練習したんだ。あっしにやてプライドがおます。犬がでっせ狩の練習か喧嘩の訓練かしてんのやったらまだしも、笑顔の練習しまんのや。昼の日中にゃできしません。夜皆さんが寝静まった頃見計らって、街灯の灯り便りに飲み水に顔写して練習しましたがな。みっちり2週間やりましたで。
どうにか格好がつきましてナ、笑顔の筋肉使えるようになりました。日曜日、アルジ喜ばしたろおもいまして、朝出てきたアルジにニッコリ笑いかけましたんや。そしたらでんな、いきなり頭張られましてな。こう言われましたんや「主人に牙剥くな」やて。こんな情けないことおまへん。このときばかりはあっしも抗議しましたで。あっしがどんな思いで2週間笑顔の練習したか、それも真夜中に。アルジの喜ぶ顔見たい一心で、あっしの笑顔期待しといて、あっしが笑ったら怒るやなんて、あんまりや。性格が複雑なのはアルジの責任であっしには関係おません。必死の思いで練習したことを滔々と大きな声で抗議しましてん。そしたらアルジなんちゅうたか「うるさい、吼えるな」でっせ。
あっしの声、アルジにゃ吼えてるとしか聞こえませんのや。
その夜改めてあっしの笑顔、もう一度水に写しましたんや。そうしたらアルジの言うとおりだすわ、笑顔も牙剥いて吼えてる顔も一緒だしてん。それやったら何も練習せんでもよかったんでんナ。
あっしが来たその翌年の秋、禮五郎君は自分の家に帰りました。なんでも禮五郎君、自分のアルジのお嫁さんに赤ちゃん出来て、面倒みるのがたいへんやさかい、ここにあずけられていたみたいですわ。でもここやと朝と晩の散歩はあるし、土も木陰もあるさかい、まあ極楽ですわな。禮五郎君は実家ではあまり散歩も行ったことがないみたいで、今頃どないしてんのやろか。あの大きな体ですやろ、それにあっしよりか3つぐらい年上だっせ。人様の歳でゆうたらもう45歳ぐらいでんがな、散歩不足で糖尿にでもなってんちゃうやろか。
散歩で思い出しましたけど、これがあっしの大好きな時間ですねん。朝と夕方と大体は日に2回でんな。あっしは散歩に出ますと、よう他の犬のおしっこの匂い嗅ぎまんねん。これ観察でんねんで、つまりでんな、このおしっこした犬あっしより強いんか、弱いんかとか。今日何を狩して食ったんやろかとかでんな。
これはあっしら犬族の習性だんが、一種のシミュレーションでんがな。まあもっとも最近の犬、狩ゆうてもせいぜい鳩追っかけるか、猫追っかけるがぐらいのことでっけど。
ところが、こないだおばやんがでっせ、匂い嗅いでるあっしを見て、こう言いまんねん「鯉ちゃん、女の子のいい匂いしてんのか」やて。何を考えてんのや言いたいわ、ホンマ。まあこうゆうのを人様は「語るに落ちる」といいまんのやろ。
しかもや、このセリフ聞いたのはアルジと散歩のときですねん。そのおばやん言った後、アルジの顔見て「うふふ」やて、よういわんわ。あっしのアルジ外でもててるちゅうのこうゆうとき、ようわかりまんな。まあこれおべんちゃらでっけどナ。
そやけど、よその犬、結構ええもん食てまっせ。こないだも、公園でウンチが落ちてましてな。嗅いでみたら、その公園でよう会うハスキーのゴンちゃんがした神戸牛のウンチでんがな、これが。
恥ずかしい話だっけどそのウンチ、思わず食ってしまいましたで。これ一つにはアルジへの当てつけだんが。アルジの嫁はんシブチンですねん、安い安いドッグフードばっかですわ。いつもえづきながら食てまんねん。そらもう毎日胸焼けます。堪りまへん。
アルジはその点よう気がつきま。ゴンちゃんのウンチ食いましたやろ、その後すぐマグロの缶詰フンパツしてくれましたわ。
今食っているドッグフード、牛が原料になってんのやが、これが狂牛病の牛だすわ、あっしらようわかってま。あっしらは鼻がすべての情報源で脳味噌みたいなもんですわナ。鼻で判りま。まあ犬は狂牛病には罹らしまへんよってに知らんふりして食ってますけど、犬権なんておまへんデ。あっしら狂牛病の牛食うたかて新聞種なんかに絶対にならしまへんしナ。
鼻と犬権で思い出しましたんやんが、まあ人様の世界も大変だんな、だんだん景気も悪なって、それに最近はジェンダーフリーやとか、夫婦別姓やとか、あっしら犬にはようわかりまへん。だいたい人様は物考えんの頭ですやろ、それも前頭葉とか使うらしいでんな。犬には前頭葉なんておまへんから健全なんでっせ。あまりそんなもん使わんと、もっと昔に戻ったらよろしいでんがな。
まあお宅ら人様には永い間培った文化・慣習がおますやないか。それ尊重しなはれナ。あまり理性とか理知とか、人権とかそんな言葉にお踊ったらあきまへん。
人様も、あっしらみたいに鼻で物考えたらどないだ。それでほとんど間違いおまへんで。根性固めなはれ、意地出しなはれナ。大体不景気なんも、治安が悪なったのもその辺に理由があるとあっしらは嗅いでま、いや睨んでま。
まあ、もっと言いたいことおまんのやが、これくらいにしときますわ。なんせ人様から餌もろてます身やさかい。
ところで、あっしには夢がおまんねん。それはでんな自由に野原を駆け巡ることですわ。まあ考えてみなはれ、あっしら著しく本能を疎外されてまんねん。
餌は自分で調達したことはおまへん。家にいても、散歩に連れてもろてもいつも鎖に繋がれてまんねん。
あっしも日本の柴犬だ。自由に山を駆け、沢を渡って兎、鼠それにイタチやイノシシ追い掛けてみたいでんねん。ときには山で迷ってもみたいし。あっしらのご先祖さまはそらもう勇敢でしたで。イノシシ追い掛けて牙で頬肉を裂かれて死んだんやら、蝮と決闘して咬まれた野郎は三日三晩飲まず食わずで、咬まれた足を田んぼの泥に浸けて治しました。そんな勇気と知恵が柴犬にはおます。あっし、試してみたいんだ、あっしの本能と知恵を。
平和はよろしおま、アルジやアルジの家族はあっしにはようしてくれてるし。でも、なんか物足りまへんねんナ。今のままやと死んでんか、生きてんか分からしまへん。死んだまま生きてるみたいや。兎追い掛けて、牙で喉噛み切り、仲間と血の滴る肉食うてみたいですねん。妻や子にあっしの勇姿を自慢したいんだ。なんちゅうか、その、尚武の心意気を見せたいんだす。山の尾根で仲間集めて雄叫びあげたいわ。
あっしは、数えでもう5歳だっせ。人様でゆうたら25歳だ。男盛りだんが、それが散歩のときも、家にいるときも日がな1日鎖につながれてまんのや、惨めだすわ。犬としての誇りがないでんのや。アルジに飼われている身分やさかい、たまにおべんちゃらで尻尾もふらんならんし。
もっとも、この家に買われてきた2年間ぐらいは、アルジのスキ見つけて、よう1人(匹)で散歩にも行きましたわ。2晩帰らなかったこともおます。人様からみたら犬も2歳ぐらいまでは可愛いさかい、アルジらも心配して探してくれましたんやが、今これやったらあきまへん。鎖外れたスキ見つけて散歩にでも行こうものなら、もうそのままだすな。これサイワイで、知らん顔されまっせ。そやさかいあっしも考えてまんねん。散歩にいったときなど、アルジが鎖はずしてくれたら、逆に忠実振りを発揮して、アルジから離れませんねん。これやるとアルジまた喜びますなあ、なんて忠実な鯉太郎やと思うらしいんでんな。
でもなあ、このままやったら死んでも死にきれまへん。アルジも実は同じこと考えているみたいでんねん。あっしと、山暮らししたいらしいんだ。アルジも大変でねんで。54歳ちゅうたらなんせ中途半端な歳ですさかいなあ。
アルジ、夜帰ってきますやろ。帰ったらきっとあっしの小屋に寄ってくれまんねん。酔っ払うて遅うタクシーで帰ることもありますナ。そんなときでもあっしのところに寄りまんな。帰ったとき匂い嗅いだら、アルジの1日の行状すべてわかりま。それに涙ぐましく玄関先で、受けたり、掛けたりした携帯電話の番号必ず消してから家に入りまんねん。おっとっとこれ以上は言えまへん。アルジの秘密は忠犬鯉太郎の口から言えまへん。
せやから、アルジは当分田舎暮らしできません。まあ今日はこれくらいであっしの愚痴終わらしてもらいま。