新年の欝

平々凡々と、然したる功績もないまま、何となく人と合い、浅い交際に終始し、ヘラヘラ笑いながら、利を求め、弁を弄して、飯を食って、自らは肥満、糖尿を気にしつつ、一時の和解に身を任せて、時は流れる。
電車に乗れば、その箱の中は顔に締りのない、風体の上がらぬ、薄汚い、私と思われる人物だらけ。いっそ山に籠もって鏡のない世界に生きればどうだろう。谷川の清冽な流れを聞き、寒風を忍び、朝は小鳥の鳴き声とともに起き、破れた窓から射す朝日にその日の命を感謝する。だがその勇気はない。
かくて毎年同じような人生を繰り返している。このような不安は、自ら積極的に生きていないからだろう。行動の不足に由来するのだろう。山に籠もりたいという願望は世捨て人の思想であり、何ら社会に還元することのない勝手だ。山に籠れば籠ったで、鬱々とした気分も出てきて、こんなはずじゃあなかった、と後悔するのやろなあ。その都度都度は、積極的に生きているつもりなのに振り返って総括すると、このような心象風景になる。過去を見れば虚無でしかない。空虚を避けようとして、一心に生きれば生きるほど、その虚無は大きさを増すのかも知れない。であれば日常底の平凡を積極的に肯定し、何も思わずそこに安住してしまえばいいのか、ここで思いは結局、堂々巡りをしていると気付くことになる。

実はこの文書、正氣の歌を横に置いて書いている。正大な正氣とは、世の常人からは狂氣のことなのだ。事を成そうと思えば狂おしいまでの正氣が必要となるのだろう。成し遂げようとする事があるかどうかにかかってくる。自らの事業を大きくしょうなんぞは、その人の勝手であり、他人からすればどうでもよいことなのだ。しかしその事業に他人を巻き込んで、同じ夢を共有すれば、話は違ってくる。問われるのは事業そのものではなく事業のコンセプトということになる。
楠木正成の討ち死には、それ自体に大義があった、正義があった。望んでの討ち死には正氣であり狂氣である。まさしく「武士道とは死ぬこととみつけたり」。清々しいもので、難しい理論で構成されたものではない。
アメーバ経営はどうか、京セラの凄みは、斬新な製品を世に問うたことは勿論であるが、大義として「動機善なりや、私心なかりしか」を錦の御旗にしたことだろう。12月17日MUスクールで坂谷先生にお会いしたとき、稲盛和夫氏は、多いときで年間50回以上社内の忘年会に出た、と記録に残っていることを教えて頂いた。忘年会は早くとも11月の後半から行われるものであるから、50回と言えば、殆んど毎晩、あるいは当日の掛け持ちもあったはず。しかも自らの健康を考えてのカタチだけ出席ではなく、とことん社員と一緒に飲み食いしたのだろう。このようなことが楠木正成で言えば、討ち死にに値するもので、社員の心を一つに合わせ、共感を得る要因だったのではないか。アメーバ経営から生じる利益に目が眩んだ御仁は悉く、目的を果たせなかっただろう。

通常の小企業には、京セラが扱ったような斬新な製品というものは無いかもしれないが、経営の動機を正しく掲げ、後は社員の共感をどのように得ていくか、を考え抜けば、自ずと道は開けるかも知れない。事は単純なのである。

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